積読の歴史・序

本に歴史あり。積読に歴史あり。
おそらくは活版印刷によって本が大量に出回り、本が限られた上流階級だけのものから一般的に浸透しだした15世紀にはもう積読は存在したと考えられる。
以来、本の歴史は積読の歴史とイコールといっても過言ではあるまい。

積読の起源

積読の語源は明治ごろであると、どこかの資料で眼にしたが残念ながら今手元にその資料がないため、確認が出来ていない。お許し願いたい。
ただし語源自体は明治でも、日本で印刷物の本格的に普及した元禄時代には間違いなく積読という行為は存在した「はず」である。
さて、それではそのような昔から受け継がれてきた積読を理解するに当たり、読書における多数の流派をひもとく必要があるだろう。
もっとも著名なものは江戸時代、町人文化の華開いた元禄を起源とする、流水流。流れる水の如くよどみなく活字を読む様から名付けられたと現代には言い伝えられている。読み方は現代に伝わっていないが、主に島原地方でキリシタン流という流派も存在したことが確認されている。明治維新をきっかけとして興された心眼速読流は、達人の境地にたどり着いた者は、目をつむったままでも本が読めたそうである。その他数え上げればキリがない。海外から入ってきた流派もあり、有名なものは、ヒタス・ラーヨ・ミマス流などであろうか。
そんな中一際異彩を放っているのが、積読流だ。開祖も不明なら、そもそもいつの時代に源流があるのかさえはっきりしないが、普通の流派が読むことに意義を見出すのに対し、この流派の究極目的は「積む」ことにある。積読タワーに異様なこだわりを見せる者がいた場合、その者はほぼ間違いなく積読流を学んでいる。そんな流派など聞いたことない方ばかりだろうが、無理もない。これは闇の流派なのだ。人から人へと素養のある者にだけ口伝で語り継がれるものなのだ。そして部外者には決して口外してはならないことになっているのである。
それならブック○フで安いの買って積み上げておけばいいじゃない、という者がいるがそれはとんだ愚物である。あくまでも積んだ当人に読もうと言う明確な意志がなくてはならないからだ。読むつもり、読むつもりで日夜買い続けた結果としての積読こそがもっとも格が高いとされている。
まさに積読は一日にしてならず、といえよう。
なお、謙虚・謙譲の思想が色濃く反映された結果、同好の士以外には趣味を見破られないことも重要な技術とされる。

  参考文献:リン・ミンメイ書房刊「積読史」