創 世 記
第18回
「演出とは何か」
あるいは、かっこ良さとわかりにくさの相克について





コラム準備項...
公開前の「ジュニアの系譜」原稿をお見せしたことを指します。



 “奇談小説家”早見裕司さまのコラム準備項がとりあえずできたそーで、拝見いたしました。
 わー、さすが、早見さんだぁー! 目配りの広さ、見識の確かさ、ご経験の豊富さ……ひたすらジコチューなわたくしめなどとは違って、ほんとうに「ぜんたい」に「まんべんなく」きちんとご配慮なさっておられて……すごいです。
 早見さんはね、とっても純粋な“愛”がそりゃあもうすごくいっぱいいっぱいあるかたなんですよう。さまざまなものを、思い切り愛して、とことん愛して、愛しまくっちゃっておられるなぁ。ゆえに、語りたいことがさまざまな方面にできるわけだし、語られるべき価値あることがら――みなさまに伝えておかなければならないことがら――をたくさん持ってしまうことにもなられるわけで、かてて加えてひとからなにか頼まれるとイヤとおっしゃれない優しいご性分。
 たぶん早見さんの脳みその中に蓄えられてある“愛”の対象の分量や詳細さや複雑さに比して、生きてセイカツしていく人間としての限界が……つまり語る速度、書く速度が……どうしても追いつかず、なかなか理想どおりにゆかず、つねに歯がゆくもどかしい思いをなさっておられるんではないか、……と傍目からは見えますですが、如何。
 なにしろ、オンライン配信のe-NOVELSのメールマガジン(二週間にいっぺん!)の編集作業なんてウザくて大変なものをほとんど一手にひきうけておられるだけだってものすごく偉くてお忙しいに違いないのに(わたしだったらアレだけで発狂します)、その上、音楽を語り、少女ヒーローを語り、もちろん小説もいっぱいお書きになって、ご自分のサイトも……ううう、どうか働きすぎには気をつけてくださいね!
 もっともっと敬意と愛情で遇されてしかるべきかたです。
 みなさま、早見さんのこれまでの、そして今まさに進行中の、いろんな作品をもっと読みましょう。無料あるいは低価格ですぐにゲットできるものもたくさんありますからね!
 そしてハヤミユウジは「早見」で「裕司」なのをお忘れなく。うっかり間違えると検索もできませんからね(わたしもよく確認しないと危ないんですが。……だってワードのバカが、速水とか祐二とか勇治とか雄志とか出したがるんだものー!)。

 えー。話かわって。

 本日、とあるかたから、拙サイトあてにメールをいただきました。
 異性に対して色香を感じるよりも「人間として尊敬できるか」にプライオリティをおくのは変だろうか? といったご趣旨の。なんでも、まったく恋愛感情ぬきでとある女性と「人間と人間として」ふつーに交際しているつもりだったのに、その女性の夫のかたが誤解して嫉妬されてしまって、たいへん困惑しておられるとかで。

 そのへんの違和感というか、不都合感は、まさしくこのサイトの(まだアップロードしていない分で)わたくしめがさんざん申してきたことにカブる感情なので、たいへんに共感いたしました。
 ほらチーラで、「大人の男女→濡れ場」があたりまえだとは知らなくて、感情なんてのはホルモンの分泌にすぎず、前頭葉を経ない知覚(の代表としての性的モヤモヤ)に翻弄されることには、まず滑稽さを次に虚しさを覚えるほう、なんですから。

 それで気がついたのです。この前書きました『カッコ良さとわかりやすさ』が両立しにくい理由。
 もしかすると、『わかりやすさ』というのは、ようするに、前頭葉、特に前頭前野(連合野)への緻密なアクセスをあまり必要としない、頭頂葉あたりで軽く処理されちゃうようなものなのではないかなぁ、と。 んでもって(わたしにとっての、わたしがこのコラムで使っている)『カッコ良さ』ちゅーのは、連合野で感じるものなんじゃないか。

 いや脳みそのことは実はちゃんと勉強してないんで、もしかして用語が間違ってたらすみませんごめんなさい。
 よーするに、同じ「わかる」にも、生まれつき誰にでも「パッとわかる」「反射的にわかる」「すぐにわかる」「本能的にわかる」もんと、それまでの経験とか思索の積み重ねがないと容易にはわからない、それらがあってはじめて「わかる」もんがありまっしゃろ? その「あとのほう」は、「まえのほう」に比べると、そら「わかりにくい」。万人にわかるとは限らん。
 幼稚ィこどもじゃ、わからんかもしれん。バカなら一生わからん。けど、だからこそ、それでもそれがわかるのが、気持ちエエ。すとんと「わかった」時、
なんか「すっ」とする。
 あー、そうや、それや、それやねん! と、言いたくなる。
 それが「わかる」エロスの、より高度なバージョンちゃうんか?
 そのほーが、『かっこエエ』やんか!
 と、わしは思とるんですわ(なんでへんな関西弁になってしまったんやろか……)。

 脳みそについて詳しいサイトは、このへんとかにありますです。

前頭葉の解剖学

脳卒中と痴呆

 たとえばミステリで、摩訶不思議な謎が解けたときのあの感じ。叙述系ミステリで、作者のオモワクにのせられてすっかり騙されてたのが、ある瞬間「え?」と疑問になって、「ああっ!」と気がついて、それまで読んできたと信じてきた「ものがたり」が「実はまるで違うものだった」ことが明らかになった瞬間のあの感じ。
 そーゆー「わかりかた」って、すっごく気持ちいいよね〜〜。
 そーゆーもん書けたら、カッコいいよね〜〜。
 ああ憧れるんだけど……かけない……自分にはそーゆーネタは思いつけないし、たとえ思いついてもうまいこと使いこなせない! こういうのを『眼高手低』といいます。やりたいこととできることにおっきな差がありすぎて、はじめる前からもうドンヨリしてしまうようなそーゆー感じっす。

 『笑点』の大喜利がわたしはかなり好きです。
 瞬時のうちに繰り出されるのはみんなかなり無理やりでコジツケなギャグなわけですが(収録前にその日のお題が示されていないのかどうかも、ちょっとアヤシイなとは思いますが)。居並ぶおなじみのメンバーひとりひとりがそれぞれ自分の個性にあわせた回答を出す。実にテンポよく。
 あれには時間的のみならず構造的な制約がつきものです。まずエンラク師匠がお題を出しますね。みんながいっせーに手をあげる。「ハイ、じゃ、なになにさん」と指さされたひとが、なにかひとこと、たとえば“A”と言う(この時点ではまだ、それがなぜ大喜利になるかわからない。つまり、どうして面白いのかわからない)。そこでエンラク師匠があらかじめ決められたキメゼリフを「ひとこと返す」。すると、大喜利メンバーは、サラリとなにかいう。これが“B”だったとする。“B”という、突然あらわれたピースがパズルにはまることによって、はじめて、なぜ“A”が“A”でならなければならなかったかのかがわかる、オチがつく、ドッと来る。座布団をもらえるかもしれないし、とられるかもしれない。たんに無視して次のひとに流されるかもしれない。
 はじめの“A”から、“B”までの乖離が大きければ大きいほど……それでいて、言われてみればなるほど確かにと納得のいくものであればあるほど、シャレていて、おもしろい。座布団がたくさんもらえるわけです。これはいってみれば「飛躍」の快感ですね。

 人間には肉体的ジャンプ力のみならず思考にもジャンプ力があり、それはひとそれぞれだったりするので、「飛躍」の快感は、その「らくらく飛べる飛距離の差」によって変わってしまいます。
 よーするにあんまり凝ったギャグだと、通じる相手と通じない相手がある。
 単なる地口(ダジャレ)であろうとも、“A”地点から“B”地点までが遙かに遠く離れたものであれば、「……うまいっ!」とうなるものになったりするんですが、これは言うほうと言われるほうが互いにその“A”も“B”も知っていなければ話にならない。
 稚拙な例をあげれば、「負うた子に教えられ」というコトワザをもともと知らなければ、「大タコに教えられ」と言われても、おもしろくもなんともないです。笑えません。
 また、「アホ」「バカ」「ダメなやつ」のことを「タコ」と言うこともあるものなのだという理解がそもそもないと、これまた笑えません。
 まさかと思いますがわかんないひとがいるといけないから解説しますが、「負うた子」とは「背負っているコドモ」つまりオンブしてあげている相手、おそらくは自分よりずっと幼いヤツ。比喩として、未熟なものや未経験なものを示します。めんどうみてやる一方だった後輩とか、生徒とかに、ふとトンでもないマチガイを指摘されたりした時に、ああ恥ずかしい、これぞ「負うた子に教えられ」であるなう、と思うわけですよ。

 でもって……鋭く気づいて欲しいんですが、いまのこれ、活字あるいは手書きでも、とにかく文字でやらないと、まったく意味のないギャグです。口で言うだけだと「オウタコ」あるいは「オオタコ」はほぼ同じで耳で聞いても区別つきませんから、言ってるほうは「負うた子」と「大タコ」のダブルミーニングにご満悦でも、聞かされてるほうはそれのどこがおかしいのか、咄嗟にピンとこない可能性が高い。まるでチンプンカンプンになる。
 口で言って無理やり成立させるためには、たとえば、釣りにいって、ほんとうにでっかいタコを釣り上げた、生きたまま持ってかえろうとした、クルマを発信しようとしたが、なぜかちっとも動かない、なんでだろー? と思っていたら、タコが触手を伸ばしてハンドブレーキがまだはずれてないことを示してくれた、おお、これぞまごうことなく「大タコに教えられ」だぜ……なんてことになりますが、んーなまだろっこしい長ったらしい話を静かに聴いていてくれる聴衆は、黙って聞いてやった結末がせいぜいこの程度ではシラケるばかりで、せいぜい口の端のほうに苦笑を浮かべてくれるだけでしょう。
 相手が社長さんだったりえらい先生だったり接待相手だったりすると、これしきのものでも、いやもっとひどいオヤジギャグにでも、「わははははは!」と腹をかかえて笑ってみせなければならないとこですが。ほんにご苦労さまです。
 世代が違うと「ジョウシキとして知っていること」が違う、つまり、“A”“B”の在庫がまるで違うこめ、つーじにくい。はたまた、イヤラシイいいかたですが、教養の練度が違ったり、興味関心の分野が違ってたりすると、やっぱり「知っててあたりまえ」なことが違うので、つーじない。
 哲学科の生徒同士だと、「アキナスは嫁に食わすな」は、美味しいものはクセになるからやるなという嫁イビリあるか、ナスはからだを冷やすので妊娠中の嫁にはよくない、つまり嫁のことを思ってなのか、いったいどっちなんだ、という討論があるが、あれは両方マチガイで、もともと「お嫁さんにはトマス・アクィナスの『神学大全』を読ませてはいけない→『諸事物の第一根源による流出』なんつー話題に関しての議論を出勤前とか夕飯時とかに毎度毎度ふっかけられたら、あーたイヤやろ?」という意味であるのだ、という冗談が成立しますが、こんな話をあっちこっちでやったらまず間違いなく「いけすかない、すかしたやつらだ」と思われるだけざましょう、たぶん。

 これまたさんざっぱらアッチコッチで言ってきてることですが、このラノのこの欄(ああくだらないダジャレの一種だなこりゃ)を読んでくださるかたはクミサオリ初心者である率が高いだろうから繰り返しますが、たしかパラクリで誰かが『今日とんでもないことがあってさー』って、言ってたんで、たぶん創作ではなく事実じゃろうと思われるんですけど、

 彼がファストフード屋さんかなんかでふとひとり本を読んでいると、隣の席の女性三人組かなんかのおしゃべりが聞こえてきた。

「レナちゃんの今度のカレシ、カッコいいじゃん。性格とか、どう?」
「うーん、それがさぁ、悪いひとじゃないんだけど、なんかちょっとつきあいにくくて」
「なんで?」
「だって本なんて読むんだよお」
「げげ、うっそー」
「やだー」
「本ってなによ、どんな本?」
 ギクリとしつつも(なにしろ自分がいままさに本を読んでいるので、その彼のいやがられる本とはいったいどんなとんでもない本なのだろうかと)よりいっそう耳をすますと
「なんかねー、アカガワジローってひとの本とかだったな」
 
 赤川次郎先生はいまももちろん大作家ですが、当時は新刊一冊でれば何十万部まちがいなしの超人気大ベストセラー作家さまでした。
 そのかたの本「ですら」読む相手をいやがるような女子には、よりマイナーな、よりヲタなものとか、たとえば男子のくせにコバルト読んでるとか、そーゆー「カレシ」はきっと理解も評価もしてもらえなかったでせう。

 この話を伝えきいたクリエイター全員が「……はー」と深々溜息をついたのも無理ないでしょ。





森博嗣
ミステリ作家。96年「すべてがFになる」で第1回メフィスト賞を受賞しデビュー。国立N大学工学部建築学科で研究をするかたわら、膨大な量の著書を執筆している。
公式:森博嗣の浮遊工作室



村上春樹
いま日本で広く読まれている純文学作家の一人。同時にロシアや米国など世界的に読者を持つ。「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」など著作多数。

 女の子にモテようと思ってロックンローラーを目指すのは正しいけれど、
 女の子にモテようと思って小説家になろうとしてはいけない。少なくとも、より多数の一般的女子に対してはあまり有効ではないことを覚悟するべき……いや、京極さんとか、森博嗣さんとか、村上春樹さまとか、もちろんつねに例外はあるわけですが。

 さて、『オオタコ』の話を思い出してください。
 媒体・表現方法・メディアが違うと、なにげなく笑えたものがまるで笑えなくなる。その「良さ」がおっそろしくわかりにくくなるか、無意味になってしまう、ここまでは理解していただけましたね?
 はたまた、表現者と、その受け手にとっての「ジョウシキ」があまりに違うと、これまたせっかくの効果が生きない、ほとんど理解不能ということが、しばしば起こりがちである。これもいいですね?
 これらを敷衍すれば、媒体・表現方法・メディアが違うと、当然、かっこ良さも別物になるだろう、ということが推察されますね?

 ここで、無理やりタイトルに戻ります。

 ああ。これぞ演出の妙だ! と、こないだわたしが唸ったのは、あの上戸彩さまが主演なさった実写版『エースをねらえ!』の最終回のオーラスに近い短いヒトコマでした。
 見てないひとは、7月に発売になるというDVDをご覧ください。
 ちゃんと見るまで何も知りたくないひとは★から★まで飛ばすこと。


(反転します)

 病床の宗方コーチが末期の際に書き残したノートのページの下のほうの最後のひとことは、もちろん「エースをねらえ!」でした。たぶん原作どおりです。もちろん、このノートが大写しになって、コーチがお亡くなりになるところは、この名作でも最大級の見せ場のひとつです。
 たしかアニメ版だとこの時、ひろみたちが載っている飛行機が窓の外をブーンと飛んでったんじゃないかってうっすらと記憶があるんですが、実写版では飛びませんでしたねー。
 病院のロケ地と空港の位置関係からして、飛ばせなかったんでしょうか。あれだけCGつかいまくってたんだから、ぜひとも飛ばそうと思えば飛ばせたろうに。それはともかく。
 実は宗方さんの妹であるところの緑川さんが、お花をいけた花瓶かなんか持ってきて、「じん?」とかって呼びかけて、答えがないのでハッとして、花瓶を落とす。
 宗方さん、死んじゃったんですね。
 泣くとこですね。
 わたしの記憶違いでなかったら、アニメはたしかほぼここで終わってたんじゃあ?
 ところが、これが「たんなるクライマックス」ではなく、伏線だったのですねぇ。
 実写版では、そこで、いきなり時間がとんで数年後、世界選手権(だっけ?)に出場するようになったひろみが、試合直前、選手控え室で、ベンチにすわり、ひとりノートを広げているのでした。静かに。
 ここで、わたしはゾッと総毛だって感動しました。
 どうしようもなく涙があふれてしまいました。
 なぜなら、ノートの文字が、かすれてにじんでいたからです。何度も何度も濡れて乾いたのを示すように、ページそのものがすこしボコボコになっていたからです。でも、これをいま見つめるひろみの瞳は乾ききっていて、すこしも潤んでおらず、むしろ、これからの戦いに備えてキリリと凛々しく燃えていました。
 もう、泣かない。
 ひとりでだいじょうぶ。
 つまり……何度も何度もそのページを読んでは泣いたんです、ひろみは。かつては。過去に。ここに至るまでの描かれなかった何年もの間にたぶんしょっちゅう。コーチがいなくなってしまって、なんだかんだ言ってくれるひとがいなくなって、たぶん「わぁん、どうしていいかわかんない。コーチー、なんで死んじゃったんですかー!」なんていいながら、何回も嗚咽しただろう。でも、
 いまはもう泣かない。もう泣かなくても平気になった。
 そこまで、カノジョは、強くなったのだ。
 そのことを、ほんの一瞬の「かすれた文字」が暗示していた。
 リアルに。
 実に説得力を持って。
 でもって、そのあとにもうちょっとあって、あれまぁなにやら既視感が、うーむこの逆光でドアでシルエットなのって「ピンポン」のペコことクボヅカくんそのまんまじゃん、というほんとのラストシーンにつながるわけですが……。

(反転おわり)


 もともとわたしに「エース」すっごいおもしろいから是非見るようにと教えてくれた某友人とは、もっちろん、この最終回のあと昂奮さめやらぬままにメールで「ああついに終わっちゃったねぇ、来週から見れなくて残念」「それにしても有明コロシアム、松岡修造の生実況までやってるわりに観客ほぼゼロってのはなぁ」「ようやく藤堂さんのそばにチョビのマボロシが見えなくなってきたとこだったのにねぇ」等々とあらゆることを語り合って喜びと感動を再確認したのですが(名作はやっぱり、語り合うのが楽しいですね)、カノジョのほうがふと、「けど、あのラストは余分じゃなかった?」と言うのです。数年後のひろみがどうなってるかなんて別にいらなかったんじゃないかと。
 驚いたわたしが★から★までで指摘したような言うと「そ、そうだったのか、そういう意味だったとは、気がつかなかった!」とおっしゃったのでした。
見落としてたんですね。そんなにまで熱心に見てるひとでも。
 それほどさりげない、あまりにも一瞬の、実になにげないシーンでしたから。

 だからこそ、カッコ良くて、だからこそ、わたしはゾッとするほど感動して、ぜったい「こんなもん(←すみません)」にヤレれまいと思っていたのに、泣いちゃった。
 なにしろ毎週、やれ緑川さんのヘアピンの位置が違うの、そもそも緑川さんって女装癖のある筋肉ムキムキ系ゲイみたいなキャラで大型バイクをぶっ飛ばしていた、よーするに「スケバン」なキャラなんじゃなかったっけだの、お蝶夫人になりきっている松本莉緒さまは素晴らしいだの、それにしてもなんでああしょっちゅう真っ赤なフィルターをかけるんだろうだの、DVDが出たらきっと松岡修造が副音声でワザとか作戦を解説してくれるに違いないだのと、ありとあらゆることを語り合わずにいられなかったわたしたち。はじめはきっぱり、すみません「キワモノ」的な、ミーハーな興味でみていたものに、すっかり夢中になり、知らず知らずのうちにマジになり、ついには大感動されられちゃったことに、最後の最後の実に「抑えた演出」でもう完璧にヤラレちゃったことに、またまた大感動しちゃったりしたわけです。
 アイドルもののテレビもここまでやるか! みたいな意味でも。
 で。

 これねぇ、そんなにすっごい気にいった方法なのに、ザンネンながらわたしには使えないの。だって小説じゃ、できないもん。画面で見れば一瞬で伝わることでも、文章だといちいち書いて説明しなきゃならないでしょ。すると超ダサイ。それがどーなっていて、それがそーなったのは何故なのかくどくど説明しちゃったらダイナシ。カッコ良くもなんともない。あくまで、「ハッ」と気づいた人間だけが悟って感動すりゃいいもので、そのつっぱなしかたがクールで良い……つまりあえて「わかりにくくした」ところに、意外性という感動の根源があるわけで、そこご丁寧に解説なんかしちゃったりしたらもう最悪なんですね。

 あまたのテレビ番組はみなさまご存知のとおり、ふつうはきっぱりわかりやすさのほうに重心を置いていて、バラエティのタレントのセリフなどはわざわざ字幕で出してしかもその字幕を揺らしたり膨らましたりなんかして、「ここで笑え!」と強要せんばかりの演出をしていたりするから、かなりカツゼツの悪いタレントさんでも(顔が良きゃ、あるいはおもしろきゃ)平気で生き残れるようになっていたりするわけだったりとか。
 推理系の二時間ドラマだと、イイモンはイイモンであくまでみな無邪気なまでに正義感が強く、しかも何故か複数でチームを組んでそれぞれ別行動をとっているもんだから、ドラマの途中でしょっちゅうどっかにあつまってミーティングをして「それまでに判明したこと」を互いに伝達することによって何度もくりかえし確認してくれるので、うっかり途中でトイレにたってたりして見逃していたところもちゃんとスジが通ってわかるようになっていたりしますし、ワルイヒトは大団円の直前に、たいがいの場合とてもよい天気で見晴らしの良い崖などのそばでヒロイン側の誰かをやっつけちゃおうとしつつ、罪を指摘されると、シラをきったりなどはけっしてせず、必ずや自分のやったことを「なにゆえに」「どのようにして」「いつどこで」実行したかを、トクトクと、それはそれはたいへんにわかりやすく解説してくれ、あまつさえ、「その場の」再現映像まで出ますしねぇ。
 あんまり真剣に考えこまなくてもついていけるように、おざなりのナガシミでもわかるように、できてるっていうより、これはもうそういう戦略をたてて毎度おなじみのそのパターンにあてはめて作ってるのに相違ない。
 これはたぶん、そういうドラマの主要な視聴者が良家の奥様で、番組をやっている時間帯がともすると旦那さんとかこどもさんとかがかえってきてゴハンたべる時間だからですね。テンプラなんか揚げるときには、鍋から火から目を離すと危ないですから。全部の画面をくまなくみていなくても、セリフだけ聞いてればちゃんと犯人が誰でなんでどーやってそんなことしたのか、すんなり理解できるようになってたりとかするわけですね。
 だから、ストーリーにも「このような」視聴者が納得する倫理観というか好みというかが、バッチリ反映されています。
 不倫カップルはちゃんとその不義密通を断罪されねばならないし、こどもはさらわれても死んじゃったり大怪我させられたり性的虐待をうけたりなんかすることはなく将来トラウマを残すようなほんとうに怖い目にはあってはならないし、若くてナイスバディでお金持ちでイヤミな雰囲気の女は最もヒドイ目にあって殺されなければならないのに対して、不器用で地味でも根がマジメなサラリーマンはたとえ途中ワナにはめられるなどの苦難に陥っても最後にはちゃんと誤解もとけて平和な生活に戻れる、イイヒトたちがちゃんとみんな幸福になって、ワルイやつは死ぬかケーサツにつかまるか当人が反省してこの罪は一生かかっても償いますとか言う。
 この原則にあてはまらない種類の作品のうち良質なものが、深夜番組になってカルト的人気を得たり、ホラー映画になってブームを引き起こしたりすることももちろんあるんですが、いわゆる「ゴールデンタイム」ご家族がみなさんお茶の間(あるいはリビング)に揃ってテレビを見る可能性のある時間帯には、とりあえず、ヤバイからやめとこ、と避けられます。いったん映画になって大ヒットしたりすれば、かなり残虐で怖いやつとか、ヘンタイ的でセクシーなやつでも放映されることがありえますが、その場合はもう有名になっていますから、視聴者側が事前に「これはコワいからやめとこ」とか「こどもには見せちゃいけない」とかって判断をしてくれるシクミですね。

 ええ、活字作品にも……ここであえて『小説』というコトバを使わないのは、とてもそう呼ぶ気になれないようなものも含めての話だからですが……戦略的に、あえてそっちの方向を選択したものがあります。過去にも多々ありましたし、いまもあるでしょう。なにとはいいませんが、すっごい人気になったドラマのトガキをおおかたはずしてセリフのみ丁寧に再現して並べてみせたやつとか。この場合は、みんな元の作品を「もう知ってる」から、うっとりした記憶を喚起させるための装置としての活字であって、それ単独の商品ではない。でも、それで十分なのね。へたに凝ってるより、単純なほうがいい。
 ものを読むことでしか得られない快楽に対して“愛”をもたない版元および編集さんが欲しがるのも、得てしてそーゆーもんだったりします。
 ミョーにハードルが高い、わけわかんないものじゃなく、ちゃんとスジミチが通っていてわかりやすい無難なもののほうがいい。

 しかし……
 アレです。
 神は細部に宿る。















インザバスナインナインナイン
これは東京新聞のCMなので、ひょっとすると関東甲信越地区以外ではオンエアされていないのではないかと、いきなり思い当たりました。わからなかったみなさん、すみません

 「エース最終回」で、わたしは、なぜあんなもん(←すみません)に自分がそんなにまで感動してしまったのか、毎週、なまじ自由業で曜日の感覚がいい加減なものだから、うっかり見忘れないようにおともだちに「今日よっ、見るのよっ!」といちいちメールやFAXで注意してもらってまで、ちゃんと見続けずにいられなかったのか、わかったような気がしました。
 よーするに、スタッフもキャストもたぶんかなりのひとがすっげぇマジ本気で、みんなすっかりあの世界に「はいりこんで」「いれこんで」作ってたものだったから、迫力があった。目を奪われた。おもしろかった。
 そうやって大切にこころをこめて“愛”を注ぎ込んで作るものには、えんための神さまが、宿るんですねー。
 上戸彩ちゃんが人気者の可愛い上戸彩ちゃんとしてではなく、架空のえそらごとの(あまつさえ、もともとはマンガ絵、流行っていたその当時の時代を反映していまみると古風な雰囲気にしかもかなり極端にデフォルメの効いた絵柄のキャラであった)岡ひろみになりきって、ほんとにそこに実在しているフツーの女の子であるかのように錯覚させうるものにしてしまうことができた。彩ちゃんの演技力や存在感についてはわたしは語る立場にないですから申しません。あまりこれまで彼女に興味なかったし。正直いって、どっかのCMの「成績が……ア・ガール!」の発音を聞くかぎりでは、聴音力および言語再現力(こえは演技者としてはぜひとももっていなければならない大きな資質だと思うのですが)はそんなに高くはないかたなのではないかと思うのですが……いやあれはCM制作サイドがわざとそーしろっていったのかもしれないしなぁ……ネイティヴな英語力を持った西田ひかるさまが昔カゼグスリだかのCMでやはり「なおりたガール」というダジャレを「なおりたgirl」と正しい発音で発音してみせたら(まんまカタカナで表記しようとすると、ガールとは似ても似つかぬ、ほとんどグォロみたいな、複雑で曖昧な母音と r と l の連続という日本人の鍛えてないベロにはなかなか再現のしにくい音節を含むので)「それじゃ意味わかんないから変えて!」とダメダシをくって、わざわざブキヨウに日本人っぽく「がある」と発音させられた、という逸話をどっかで読んだことがあるし。
 インザバスナインナインナインの「バス」は紅毛碧眼の外国人らしきキャラが余計なダメダシしてベロ噛んで「ばーTH」とやってみせてますが、THを発音する際にいちいちベロ噛んでたらベロが傷だらけになるわけで、実際あんなにベロつきだして噛んでるやつなんてどこにもいませんよ、そんなウソをああやってマコトシヤカに教えるぐらいなら「bus」と「bath」の「あ」の部分が違うこと、発音記号で書くと A の横棒がなくてチビなやつ[強くきっぱりとしたア]と、aの伸びたやつ[弱いアー]か a と e がくっついたやつ[エからアに行く途中の音]になるんだよ、という、より正確な情報を提供すりゃいいだろうに、アホなガキとかが間にうけちゃったらどうすんだ、そもそもこのCMは新聞社のものではないか、社会の木鐸としての役目をいったいどう考えているのだ、エッ、担当、責任とれるのか? と、毎度疑問に思わされてならず、公共広告機構に「不当なCM」としてクレームをつけようかと思わずにいられないほどなのですが。ちなみに南部弁(盛岡の方言)にはアエイオウでは正確に表記不可能なこれの中間だったり別バージョンだったりする曖昧母音が大量にあっていわゆる母音が5種類ではなく少なくとも12種類ぐらいあるため、幼いころからバイリンガルで育ててもらってほんまにありがたかった、でも r と l の区別はほんまムツカシイよなぁ……って、なんの話だっけ?

 あ、神は細部に宿るだった。
 ほんとのカッコ良さとか、感動とかは、神が宿ったとしか思えないような奇跡の瞬間に訪れるもんないだよ。

 とか思ってたら、




ロボコン
ロボットコンテストを題材にした青春映画。淡々としたドキュメント方式で、奇妙なリアリティが胸に迫る。古厩智之監督。主演は長澤まさみ、小栗旬、伊藤淳史、塚本高史。
→ama

 たまさか今朝、朝風呂にはいりながら読んだSPA!の3月30日号(なにしろお風呂でダラダラ読むので何週分も遅れがち)のDVD新作紹介欄(145ページ)で『ロボコン』(古厩智之監督)が紹介されているんですけど、村山章さまとおっしゃるらしいかたの文章が心を打ちました。

[引用]

 ……とにかくマイペースを貫く古厩の作風は、ヤマっ気をちっとも感じさせない真摯で朴訥な直球勝負。映画の登場人物も不器用なら監督も不器用。「カッコいいってカッコ悪くないですか!?」という発言が、その人となりを如実に示している。
(中略)
 「本気じゃないんで、笑ってください」的おフザケがウケる昨今の流行に逆行する、超正攻法の青春ドラマ。地味と呼ぶなら呼べ。でも真っすぐなストーリーを描くことができない世の中なんて、カッコ悪くないですか?

[引用おわり]


 うっわー、みたーい。それ。ぜったい泣いちゃうぞわたし。そーでなくてもカロリーメイトのワカゾーくんの伊藤淳史くんはいるわ、荒川良々はいるわ、うわっ吉田日出子さままでおられるしー!
 だいたいそーでなくても、NHKのほんとのロボットコンテスト、やってるのに気づいちゃうと見ちゃって感動しちゃうもんなぁ。

 ああもうババアの脳みそが混乱して、あっちいったりこっちきたりですみません。

 ようするに何がいいたいかというと、上の村山章さまの発言や、古厩監督の発言とわしの言ってることは一見矛盾してみえるかもしれないけど、ぜんぜんちゃわない。
 あまりにわかりやすくカッコ良いのなんかぜんぜんカッコ良くなくて、むしろダサい。逆に、そーとーカッコ悪く徹底的にカッコ悪くむっちゃくちゃカッコ悪いのを限界まで追及するとむしろ、マイナスとマイナスがかけあわされてプラスになるように、数学のできないわたしには数学的考察のためだけにあるよーにしかみえない虚数単位 i がなんと相対性理論だのミンコフスキー空間だのをなりたたせるためにはないとこまるものになっちゃうらしい! みたいに(ああまたわけわからんタトエを)突然光り輝くほどカッコ良くなっちゃう場合だってあるぞお〜〜! ということなのです。

 ゆえに(なにがゆえなんだか)
 わかりやすいものというのはシバシバ、あまりに歴然と「うそ」である。
 「うそ」だという指摘がキツすぎるとするなら、底が浅い、視野が狭い、ご都合主義である、と言い換えてもいい。あまりに単純化されすぎていて、事実ではあっても真実からは遙かに遠いものになってしまっている。よーするにムナシイ。
 ウチらの日常生活に相対性理論が関係ないのは(だから、いっくらわかりやすく説明してもらってもわたしなんかにはまるで理解できなかったりするわけだが)虚数が必要となるような時空間はわしらの生きてるこことはなんつーかケタ違いなでっかさみたいなもんをもってるからだ。ここでは、この世では、ニュートン力学とかユークリッド空間とかで「じゅうぶん」なんである。でもさ、それはあくまで『カリソメにそー見えてるだけ』で、ほんとはちゃうねんで。
 ほんとの「カッコ良さ」は、そーゆー、虚数みたいなもんじゃないでしょか。
 でもって、その真実に、「カリソメ」じゃないほんものに、到達できたら、いや届かないまでも必死に手を伸ばしつづけてるのって、カッコ良くないでしょうか?

 自分でもそろそろ何言ってるんだかわけわかんなくなってきたから大急ぎでまとめるけれども、
1・メディアが違えば、有効なカッコ良さも違う。
2・カッコ良さはしばしばわかりやすさと相克する。
3・もっとも大衆的な娯楽は、上の二点を踏まえたうえでわざとそれを無視して作って、短期間にしかも「マジにいれこまずに」消費されることをヨシとしがちである。

 この3点は理解して欲しいのだ。

 ほんとうに正しく良質なメディアミックスは、上等な翻訳のようなものになるはずだ。
 画面で見てカッコ良いシーンはそのまま文章にするとただダサいだけだし、書き文字でないと面白くないものを口頭で伝達するのはほぼ不可能であったことを、ここで思い返して欲しい。
 とすると、アニメで見ても、ゲームでやっても、小説で読んでも、どれもみんな「すごく面白いもの」にするためには、それぞれの分野の特性を踏まえたそれぞれのスペシャリストが、元ネタを単になぞって「準拠」することよりも、むしろ換骨奪胎し、翻案して、その味わいや感動を別のかたちで再現し、少なくとも本家にまさるとも劣らないほどの意味あるものを作ろうと意識されねばなるまい。どれが最初でも同じ。映画のノベライズだろうと、小説の映画化だろうと、どっちも「そのまんま」では、ぜったいにうまくいきっこないですから。まっとーにうまくいってないものを(いくら元ネタが好きだろうと)許してはいけませんわ。
 そのなによりの良い証拠に、誰とは申しませんけど、小説家が監督した映画って、ほとんどの場合ろくでもないでしょ? いくら自分の原作のベストセラーの映画化でも、もともと自分から出てきたものだからといっても、やっぱ映画は映画が専門のひとに委ねて任せて預けちゃったほうがいいのよ。部分的に自分のコノミと違ってるとこがあったとしても、いちいち口出しはしないほうがいい。じゃないと、全体の完成度が狂っちゃううから。

高千穂遙
SF作家。80年「ダーティペアの大冒険」、86年「ダーティペアの大逆転」で星雲賞受賞。
公式:Takachiho-Notes

(ちなみに、高千穂遙先生が温泉オフの時におっしゃっておられたけど、そもそも、ビジュアル作品を描くのが得意なひとは、ビジュアル表現で何かを伝えることに特化しているしその方面に自分を鍛えてきたので、そのビジュアル作品に関して本人にコトバでことこまかく説明させよーとしてもふつー無理だと。逆に、コトバでなにかを十分に説明し表現できるやつは、それと同じレベルの絵をモノすることができるような才能はもっていないものだと。脳みそちゅーのは、たいがいそーゆーふーにできていると。現存する唯一の例外が、ぬえの社長で、ビジュアルも文章もきっちり理解し監修できる自分であるともおっしゃっておられて、これには『クラッシャー・ジョー』やら『ダーティー・ペア』やらに熱狂したわたしとしては、確かになぁ、とうなずかざるを得なかったりしましたですが)


指輪物語
「ロードオブザリング」の原作となったトールキンのファンタジー大作。新版の文庫では全9巻+追補編となっている。
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 そんなこんな考えると、文庫6冊もある『指輪物語』(しかもあの凶悪なまでに細かな活字!)が、ほんの2時間ちょいの映画「たった三本」に、あの水準で再構築されたのは、まさに奇跡としか言いようがないなぁ。スマンが実は最初のイッコしかまだ見てないんだけどさ。ものすごい努力と根性と計算と思索と、そして「開き直り」が必要であったに違いない。

 で、問題の“ライトノベル”なんざますけど。
 最初から「アニメ化」した時のことを考えて書いてるとしか思えないみたいなヤツ、たまにありません? そーゆーのキライなんだよねー。
 これは自分の作品がただの一回もアニメにも実写にもなんにもしてもらったことがないからのヒガミかもしれないけど。そもそも大ドラクエのノベライズで糊口をしのいだやつになんの発言権があろうか、かもしれないけど。
 あたしが書きたがる、書いてしまう、それしか書けないものって、たぶん、「小説として読んだときに面白いように」なってしまっている度がミョーに高いんじゃないかと思う。
 持ってうまれてしまった読む“エロス”に対してのコダワリ(ちなみにコダワルというのは良いことではなく、カッコ良いことでもなく、むしろ、みっともないことだとわたしは認識していますが)が強すぎるんではないかと思う。
 なにもゼッタイに映像化できないようなモノばっかり書いているつもりはないのだが(どれというと、そう指摘することそのものがネタバレになるから名前はあげられないが、現存するすばらしい作家による叙述トリックミステリの中には、そのトリックがあまりにすばらしいゆえに映像化不可能だったりするものがよくあるが……なにしろ、どういう役者をどこに配役するかがネタバラシになってしまうので)
 あっ、そうそう。おかみきには一度映画化の話があったんだけど、「めるちゃんの絵をもとにしたアニメにしてくれたらうれしいなぁ」っていったらダメで(少女マンガの線はそうでなくてもあまりに繊細でアニメに向かないらしく、ましてめるちゃんの絵の場合、しばしば輪郭がサダカでなかったりするから、動画化するのはものすっごく大変であるらしい)、どーも企画元はアイドル映画にしたかったらしくて、『渚のラブ・ヨット』とかなんとかいうとんでもない脚本があがってきて、ゲゲーッこんなの実現しちゃったらどうしよう? 読者のみなさんから総スカンを食らうの間違いない! と思っていたら幸いにも(←と当時は思った)その企画はあっさりナガレちゃったんだけど、いま思うと、どんなトンデモな映画でも、いちおー見てみたかったなぁ。
 えー、わたしの書きがちなモノっつーと、たとえば、あるキャラのオトナになってからと、コドモの頃の回想とかがガップリ四つに組んでからみあったりするのがいけないのかもしれない。そっくりな子役さんとおとなの役者さんがたまたまいればいいけど、たいがい、「このコがおおきくなったのがコレだってことにしておいてくださいね」レベルで、なかなかほんまにそっくりなヒトっていてはらしまへんしなぁ。

 そーゆー意味で
 しつこく言うけど、
 わたしはあくまで『小説として読んだ時に一番面白いおはなし』を書くのが好きっす。
 つーか、そのモノガタリをもっとも効果的にモノガタルために小説という形態を唯一絶対のものにしてしまいがちなネタばかりをなぜか思いついてしまう、ほぼまずそーゆー方面から「しか」思いつけないように脳みそができちまってるらしい、というか。
 とすると、重要なのは、波乱万丈なあらすじでもキャラでも謎とその解明でもなく、ごく些細な「細部」なんだよね。なにげない演出や、描写や、使う用語のひとつひとつの選び方なんだよね。
 ……ようするにわたしの小説“愛”は、最終的には「文体そのもの」に帰着しちゃうわけ。語り口そのもの、コトバひとつひとつに。
 ふつーに読んで読むのが気持ちよくない(一読しただけで意味がすんなりわからなかったり、あるいは、へんなクセがあって気になってしまうがなかったりするような)文体で書かれたモノガタリは、どんなに驚天動地のすっごいストーリーだろうと、どんなに特別で斬新なキャラが出ていようと、どんなものすごいシカケがしてあろうと、どーもスカンと。「小説としていちばん肝心なとこがアカンやんか」と思う、と。
 これはほら、ゲームのとこで、ゲームバランスがなってないのは駄作だといったのとまったく同じことね。

 映画もさぁ、一流の映画って、ほんの一瞬一画面みただけで違うでしょ。その画像の持っている「質」そのものがイイじゃない? なにか「強さ」があるというか。画面のすみからすみまで気配りが行き届いてるというか。全体がしっかり「監督」の手でコントロールされているというか。そーゆーこと。


梶尾真治
短編SF作家。珠玉の時間SFはそのスイートな作風が根強い人気を誇る。「サラマンダー殲滅」で日本SF大賞受賞。ほか代表作に「おもいでエマノン」「黄泉がえり」など。

 梶尾・黄泉がえり・真治さまが、どっかで、『SFでしか描けない、SFだからこそ書けるものを書いてこそのSF』みたいなことをおっしゃっていたのにも、強く共感するものです。
 ジャンルの選択もまた、同じリクツの上にある。

「負け犬の遠吠え」
著 酒井順子
講談社 (2003)
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 だから……たとえ一花咲かせてあとはお気楽に消費されるべき運命にあるところの“ライトノベル”であろうとも、そこらへんにまるで目配りできてないもんはイヤだわ、と思ってしまって、それであんまし読んでないのね。ごめんね。
 ましてや若年層に読まれることが想定されるものには、マジにとりくんでちょうだいよ、将来の日本国民の国語能力の向上のためにも! より美しい、より正確な、より練りあげられた文章で書いてちょうだいよ、と思っちゃうのは、ババアの老婆心、あるいはいま話題の『負け犬の遠吠え』ってやつかしら?

「本気じゃないんで、笑ってください」
 とさっき引用したSPA! の記事にあったけども、これは「本気じゃないんで、どーせ安物なんで、いちいちうるさいこと言わないで、笑って許してティッシュのように使い捨てて忘れてください」という意味だろ?
 “愛”なんてウザイからいらない、ただ一時の快楽一夜のアバンチュールだけのほうがいい、みたいな、刹那な生きかたでいいと、きみ、思ってない? どーせ会社とか就職しても続かないんだから一生フリーターで、その日暮らしで、その瞬間その瞬間がラクチンならいいや、って、思ってない?
 ま、ひとはそれぞれだから。
 よーく考えた上で(もう日本はいや地球そのものがそう長くはもたないだろう、いまに破滅するだろう、とか、そこまで考えて)わざとそーゆー選択をするっつーなら止められないが。

 気軽に手早くなんでもどんどん消費するのが好まれ尊ばれ持てはやされるご時世なんか、トットと過ぎ去って欲しいものざます。

原稿受取日 2004.5.3
公開日 2004.6.16


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