故人になられてしまった多田かおる先生が『愛してナイト』だったかなぁ、もうすっごいハッピーでラブリーで可愛くてステキな楽しいマンガを連載していたとき、「大好きなんですよー」と、とある編集さんにいったら、……実は、多田先生はいま大変で、闘病中の母上が入院しておられる病院にツメておられて、病院だから消灯がある、夜中にも描かないとシメキリに間に合わない、だから真夜中でもちゃんと灯りのある「階段」に腰を据えて描いておられるのだ……という打ち明け話を、聞かされたことがある。
ウソでしょ! と正直思った。
作品には、そんなカゲはミジンもにじませておられなかった。
あくまで元気で楽しくて、ハッピーだった。
なんて強い、なんてスゴイ作家だろう、多田先生は……!
そう思って……カゲリひとつないマンガのキャラたちの笑顔をみているうちに、どうしようもなく泣けてきて、以来、多田作品は、おかしければおかしいほど泣かずに読めなくなった。ご本人が天国にいってしまってからはなおさらである。
そのへんからかなぁ。
いや、もとからかな。へそまがりだから。
わたしは無邪気で根っから明るいコメディを観ると、涙で画面がろくに見えなくなるほど泣いてしまい、あまりにもシリアスすぎるものを見ると、ついつい顔をゆがめて失笑してしまう。
『チャンス』という、『ピンクパンサー』で有名なピーター・セラーズというひとが「知的障害をもってるひと(たぶん)」の主人公を演じる映画を観にいった時のこと。
映画館じゅうのひとがゲラゲラ腹をかかえて笑ってるシーンで、わたしはたったひとりハンカチを顔にあてて号泣をこらえている自分を発見して、これはどうも間違いない、脳みそにおかしな回路ができている、と確信した。
世界はオセロ板みたいなもので、ハシッコに白がくると、全部の黒がだだだーっとひっくりかえってしまう。陰陽はたがいを補完するから、一見セキララに浮かびあがっている表層の下には、正反対なものをおのずと内包している。悲劇は悲劇でありすぎればもう間違いなく喜劇であるし、喜劇は喜劇として完成度が高いほど悲劇なのだ。
よって……「今年最高の感動作品、これは泣けます!」みたいな方向にとっても自信たっぷりに宣伝されているものを視聴あるいは読書などすると(最近そーゆーのなんか多くないスか?)「まってました! おねがい、泣かせて!」とすなおに思ったりなどできない。
むしろ、「どれどれ、ナンボのもんや。お手並み拝見……ふうん?」みたいなつい冷笑的なタイドをとってしまいがちになったりする。
逆に、笑えます、ギャグです、ぜったい楽しいです、といわれているものだと……ほんのちょっとした一瞬のせいで、うるうるきて、しまいには、だーだー泣いて、ハナミズまで垂らして、あうあうオットセイのように嗚咽してしまったりするんである。
我ながら壊れてるとは思う。
どんな種類のものであれ、ものを作るひと……つまりクリエイター……は、未完成で不幸で満たされていないこの世界を『補完』するための何かを作り出すためにエネルギーを使う。
「クリエイト」創りだす、とは、そういうことだ。
「世界」は当然現存する自分、ここにいまいる自分を含むから、そこから生まれてくるものは、確かに自分から出たものでありながら(だから著作権は主張するが)、自分そのものの影というか真逆というか、ウィルスに対するワクチンのようなものになりがちなのではないかと思う。
だからね、作品にホレてしまって、この作品の作者はきっと「この作品のもたらした印象と同じ印象をもたらしてくれるひと」だろう、と思ったりするとたいがいマチガイです(笑)。
なにしろモノカキとかクリエイターというのは全員「職業的うそつき」なので、「ないものを作り出す」名人で、演出とか、演技とか、ミスディレクションとかが「得意」なのですから、だまされてはいけません(笑)。あるいは、だまされていることを承知の上で、楽しくだまされてください。
そんなこんな言うわたしも、作者と作品をちゃんといつも「区別」できているかというと、そんなこたーないよ。だめっす。「わかっちゃいるけどやめられない」。
そして、鍵穴を調べれば鍵のかたちがわかるように、影を見れば実体のほうがなんとなくわかるように、デキてしまうものは生んだもののなにがしかはどうしても引き受けている。
すべての作品にはどうしても作者の「指紋」が捺されている。
いつだったか、同世代の同性の同業者のナカヨシ一同が十名ぐらいかなぁ、集まったとき、
「わたし、コドモの頃、オンナの子って苦手だった。だから、こんないいオンナともだちができたのは、この世界に入ってからだよ」
とひとりが発言し、わたしもそうだよ、わたしも、と次々に手があがった。
「わたし、コドモの頃、通信簿にいつも、協調性がないとか、ナマイキだとか、我が強いとか、問題児だとか、個性が強すぎるとかって書かれた」
わたしも、わたしも、と何人もが言った。
この21世紀も、吉屋信子先生の時代から、実はさほど隔たっていないのかもしれない。
一般的にいって、女性の性質はふつう、保守的で現状肯定的であり、絶対多数に融和的であり、なかまはずれになるぐらいなら周囲にあわせるし、オトコ受けのいいファッションはコレだ! と言われればすなおにそれを模倣するし、自我などというウザッタイものにへたに拘泥したりせず、いくらでも何度でも妥協をし、そのかわり身軽に次々に変遷することができるのではないだろうか。
なのに、モノをかかずにいられないオンナは、他人の視線をなんとも思わない「異形」の「怪物」の一種で、コドモの頃から近所でも評判の変なコで、ごくふつうのひとであるところのクラスメイトたちには理解してもらえず、女子集団の中では、浮いてしまうか孤立してしまいがちなのだ。
だからこそ、
ものがたりという自分だけの世界に逃避して、そこに棲みかをみつけるのかもしれないし、
因果が反対で、
あまりにも強固な自分を持ってしまっているから、現実とうまくやっていくことができないのかもしれない。
では、そんなやつらの書くものがたりが、なぜ商売になるのだろう?
「ふつうの女の子たち」はそんなもの好きではないのではないのか?
それとも……一見ふつうに適応してうまくやっているひとびとも、内心では「周囲にあわせてばかりの八方美人な自分」にウンザリしていたり、状況にあわせて擬態するようにしょっちゅうコロコロ態度を変えるから「ほんとうの自分はどこ?」状態になったり、するのではないのか?
なんだかわからないが、
われわれはともあれ読者を獲得することができて、「こんな自分」でも生きていける場所を見つけた。
もしかすると、ある頻度で、読者さまがたうちの何人かに「実はほんとうはこうじゃなかった自分」を発見させ、また「新しい怪物」を再生産していったりすることもあるのかもしれない。
男性作家/読者の場合はどうなのか、あるいは男女どちらにしろ同性愛的なかたがどうかなのか、わたしオトコじゃないしヘテロなんでよくわかんないんですけど、先にあげた女子の例とは必ずしもまったく同じではないにしても、そっちはそっちで別の事情から……たとえば、社会のあるいはなんらかの集団の構成員としてのあるべき自分のなすべきことがらと、若いオスとしての本能のあふれるままの行動との乖離とかなんとか……やはり、引き裂かれていて、ダブルバインドで、平気で矛盾なのかもしれない。
作者と作品はベツモノである。
が、ひとは、自分のものの考えかたという狭い檻の中に住んでいるケダモノなので、他人もふつーは自分と同じようにものを考えるだろうと無意識のうちに誤解してしまうものだったりする。
疑り深いひとというのは、本人がいつも笑顔の底で他人を出し抜くチャンスを狙っているものだし、
嫉妬深いのは、本人が現在まさに浮気やフタマタをしているか、過去にそーゆーことをして隠しているか、ラブハンター願望を常に抱えているかのどれかだ。
ものを書くということは、
しばしば多くの登場人物に独自の性格づけをし、一定の動機を与えることでもある。
どんなに必死に変化をつけようとも、空想や研究によって補おうとしても、すべてのキャラにはその作家ならではの偏重が刻印される。
すべての小説が架空という意味でファンタジーであると同時に、続きがどうなっているか知りたいという意味ではサスペンスであり、なんらかの謎とその解明がある限りミステリである側面も持っていないことはなかったりするわけだが、罪(犯罪として法に問われるほどのものでないとしても)の種類なんてそーそー多くはない。『セブン』で有名になった七つの大罪を列記してもいいのだが、もっと単純に、「経済的動機」「怨恨・嫉妬・プライド」「愛憎」の三つに限定してもいい。三原色がすべての色を生み出すように、この三つが微妙にぐちゃまらに重なると、ありとあらゆる動機が発生する。
どの作家も、そのうちのどれかに(意識的であれ無意識的であれ)独特の固着がある。
だから、作品を読まれるということはこっちのココロの奥底の一番ヤバイところにあるドロドロなものをさらけ出すことに他ならないのだが……
「わかっちゃいるけどやめられない」ゲンジツには行動できないことであっても、そもそもまったく「わかってない」ことはかけないはずだ!
が……不思議なものでして……
小説のかみさまというのが降りてくるとですね、本人が「書ける」ものを、作品が勝手に「越えて」しまうことがあるんだよね。
いわゆる「キャラが勝手に動き出す」状態になったりして。
書いてる端から、作家本人が「ええっ、そうだったのか!」なんで驚いたりする。
なにげにたまさか「そーゆーこと」にしておいた設定が、あとあとになってから、実は重要な伏線で「だから」なになになのだぁ! などという、「作者も知らなかった真相」がある瞬間突然みえたりするんだよ。
ファンタジーなどの場合は、この世ではない世界そのものを『造る』わけだけど、ほんとーにマジ、齟齬のなく整合性のあるこの世ならぬ新しい世界をいっこまるごと作ろうとすると、一生に一作品も書けるかどうか、はなはだアヤシイわけ。だって、みなさま、『現にあるこの世』のことだって、スミからスミまで理解なんてしてないでしょ? 文化・経済・歴史・政治その他その他、全部熟知なんてしてないでしょ? でも、日常生活には不便はないよね。
小説のかみさまが降りてくるタイプの作家の場合、ものがたりを先におしすすめるために必要な場面、必要な空気、必要なすべてのものは、必要になったその時にいきなり「きわめてリアルに見える」のね。
映画みたいに見えるひともあれば、漠然としたまだ文章化できないイメージで見えるひともあるだろう。文章そのもので出てきてくれれば便利なのだが(笑)少なくともわたしの場合はそうではない。わたしは「夢をみるように」小説をみる。
ご存知のように、夢はまず「雰囲気」だ。たとえば、なぜ悲しいのかまるでわからないのだが、やたら悲痛な悲しさだけがとにかくあったりする。そこで起こることがらが悲しいのではない、いわれたセリフが悲しいのではない、しかし、とにかくひたすら悲しいのだ。
その悲しみが大きければ大きいほど、なんとかして、他の悲しみではないこの悲しみを、まさにこれそのものを、伝えたいと思う。なぜか、その悲しみはわたしだけのものではありえず、大勢のひとに共通するものに違いないと確信してしまっているからだ。わたしが慎重にうまく描きさえすれば、万人に「ああ、これは知っている、わたしもこれを見つけたことがある」と思ってもらえるのではないかと思う。
かくて、わたしはなんのカタチもない「雰囲気」を必死にデッサンする。なんらかの輪郭がとらえられたと思えたら、配色し、トリミングし、額縁にいれる。
こういうわたしの書き方は「計算しつくされたプロット」になりようがない。「お約束のキャラ配置」(たとえばガッチャマン型……つまり、主人公と、皮肉屋で侮れない二番手と、デブなやつ、チビなやつ、紅一点)などを、きわめて「戦略的」に設定することもできない。ストーリーは、起承転結もあらばこそ、ただのイキアタリバッタリだ。
われながらよくこれで四半世紀も生き延びてこられたものだと思う。
そもそも日本人には「一芸に秀でる」「なにかにひとすじにうちこむ」ことに対する尊敬の伝統があり、ワンパターンと呼ばれること必ずしも非難ではない。『水戸黄門』がお手本だ。「毎度おなじみ」の展開、クオリティ、いつものおなじみの登場人物、キメゼリフ。それらをこそ、そのほうを……イキアタリバッタリで、海のものとも山のものともわからない何かより、あきらかに「好む」「ほしがる」層が大勢ある。
そちらのタイプの作品をコンスタントに生み出すことができる作家のほうが、そりゃ、安心して買える。
なにしろわたしゃ、かみさまが降りてこないとなにもできないわけで、かみさままかせ、他力本願だから、作品の質とか、量とか、すまんが本人にもどーにもコントロールできない。で、いちいち毎度やることが違って、この前の自分をこんどの自分が裏切るようなこと、しょっちゅう起こる。
こないだの作品が『このみにバッチリ』だったから、次も読んでみようっと! な読者のひとにとっては、ほんとに迷惑なまでに不器用で申し訳ない。
しかもわたしは、ひとつの作品にはその時点で持っているすべてを出し惜しみなく徹底的に注ぎ込まずにいられないほうだ(なにしろかみさまがそうしろっていうんだもの!)。おかげで、何かをイッコ書きあげると……あるいはひとつのシリーズを終えると、もののみごとにカラッポになってしまう。
次になにかをやるためには、自分自身の精神的肉体的エネルギーを蓄えつつ、ものがたり世界で、なにかがゼロから……あるいはゼロに近い種子のようなものから……ひそかに発芽して育っていくまで、じっくりと時間をかけて待っている以外、なにもできない。
かみさまー、そろそろ降りてきてくださいー、といくら祈っても、かみさまにはかみさまの都合があるらしく、とっとと降りてきてくれるときもあれば、なかなか降りてきてくれないときもある。いまこられても困るっつーに! な時に降りてきちゃうことすらある。
だからシゴトがのろい。
ていうか、計画的にできない。
したがって余裕がない。
高度資本/消費主義社会には実に不適応で、まったくもって不器用だけども、他の方法は選択できない……。
こうして改めて考えこむと、こんなタイプにうまれついちまって、しかもそれ専業でプロで食っていこうとするのは、ほとんど無謀としか言いようがない。
かみさま、いつ来なくなるかわかったもんじゃないんだし。
だがしかし……ここまで歴然と不利なのがわかっていてもそれでもなんとかして自己正当化でもしないととてものーのーと生き続けてはいられないから平気な顔してしゃーしゃーと正当化するんだが……わたしは幸福なのだ。
なにしろかみさまと直通しているんで(あああぶない発言……)
かみさまは、根がイジワルなのか、他でもいろいろ用事があって忙しいのかしらないが(まぁそうだろうなぁ、人類60億もいるしなぁ)ほんとにタマにしかきてくれないけど、きてくれたときには、たいがいスゴイものをくださる。
わたしごときのセコい脳みそがセッセと企てる論理の限界など、ヒョイッ、と超えてしまうようなものを。
スゴイもの、といって、嬉しいとか素晴らしいとか言わないのは、まことに不遜であるがそれがしばしば、わたしがひそかに欲しがっているものと、どーも、ちゃうことが多いからである(あああ、このバチあたりめが)。
ともすると、ひとがもらったもの(たとえばベストセラーとか。○○賞とか)を見て、胃袋がキュウと鳴くほどの飢え渇えをかんじてじまったりするからだ。
だがしかし。
かみさまは、完全で万能であるからして、背負いきれないものは寄越さないもんだそーだ。
ということはだ、わたしが欲しいと思っていたものは、わたしにはふさわしくないものだったということになる。わたしはわたしがもらったもので満足せんといかんということになる。
よその誰かがもらったものは、まさにそのひとがもらうべきものだったのであって、わたしなどがいくら欲しがっても詮無いのである。
よって……
「ったくさぁ、かみさま、勘弁してよ、もうちょっとちゃんとメンドウみてよ。頼むよ」とかなんとかブツクサいいながらも、わたしはわたしがもらってしまったものを後生大事に預かって、あたためたり、洗ったり、セッセとみがいたり、やりすぎて壊してあわててボンドでくっつけたりしながら、なんとかそれなりのかたちにして、また「世界」にむけておかえしするのである。
わたし自身はどんなにズタボロになってもかまわない(ほんとはイヤだけど、できればハッピーでラッキーでルンルンにしていたいけど)が、作品だけは(なにしろかみさまから来たありがたいものなので)幸福になって欲しいと思う。いつでもどこかで誰かに発見され読まれて、「好き!」といってもらえたらいいなと思う。「おう、これぞ、わたしが読みたかったものではないか!」と……、作者であるわたしは顔も性格も年齢も境遇もなんにも知らない一生であうこともない語り合うこともないどこかの誰かに見つけてもらってとことん「愛される」可能性を持ち続けていて欲しい、そのためには、できるだけ長いこと生き延びて欲しい。
作品は、たまたまかみさまがこのわたしを選んでくれて、わたしによって受肉され、この世に届けられたかもしれないけど、本来は、「天」にあるものだから。
ただのイッコの人間という物体にすぎないこのわたし自身よりも、
そっちのほうがエライ。
ずっとエライ。
わたしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはわしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
……
宮沢賢治『春と修羅』序
こんなに美しい表現を生み出してくれたセンパイがおられるのだから、もう、これ以上ヨタを重ねる必要もあるまいが、あえてつけくわえさせていただくと
いのち、は、一瞬たりともとまらず動き続け、どこにもけっして留まらない。
コレに対して、作品は少し「別の次元」にある。
ある意味では静止している。変わらない。しかし、有限のいのちを持つ受け取り手という個々に異なった相手を得るつど、いきなりキラキラと開花する。まるで硬い石のような種が雨の季節に芽吹くように。氷河に埋もれていた太古の種子すら、あたためられてよみがえるように。
いかなる作者も、作品に奉仕するために偶然選ばれた宿主にすぎない。
そりゃーあたしだって人間ですから、プライドとか、メンツとか、これまでのつきあいとか、因縁とか経緯とか過去の実績とか日常生活上の必要とか、いろいろいろいろ瑣末なことがあるわけだけども、
自分がラクすることとか、有名になることとか、儲けることとか、みんなにチヤホヤされることとかを、ついつい求めてしまいそうになるんだけども、
かみさまからもらったものを、ちゃんとステキにかたちにすることができて、世界に向けて送り出すことができたら
ほとんどそれだけでかなり幸福なんです。
ああ。人生80年。モノカキには定年も引退も退職金もない。道はまだ半ば。どこまでいけるんだろう。いかねばなぁ。
ちなみに……この項目の大半は、5月5日には書き上げていたものなのだが、その後、スレッドなどで多数の会話を交わしたゆえ、6月5日に、かなり手をいれた。原型は半分ぐらいしか留めていないと思う。
余計なことや、スレッドのほうでもうさんざん話題になりわたしもわたしなりの考えをいちおう述べてしまったことは思い切って消して、それでもどうしても伝えたかったことを足した。
ゆえに……もしかしてスレッドはあまりに怒涛のように次々にいろんなものが出てきてるから読んでませーん! というかたがおられたとしたら、すまんが、どうかそちらも読んでいただきたい。
"ライトノベル"の創世期の諸般の事情をセキララに書くつもりが、気がついたらほとんど自分のことばかりしゃべくってきた。なにしろすまん、ジコチューなのだ。こんなやつのことなどどーでもいいかたがたにとっては、さぞかし鼻についてうっとおしかったことだろうと思うが、各スレの盛況を見ると、それでもなんらかのかたちで何人かのひとびとの思考を触発し、活発な議論のタタキダイになることができたらしい。少なくともその点では、意味がなくはなかったのではないかと思いたい。
大勢の、これがなかったらたぶんそうそう知り合えなかっただろうかたがたと、かなりディープに交流することができたのも、わたし個人にとっては嬉しい収獲であった。8月頭には都内某所でえんため大賞の授賞パーティーがあるはずで、ファミ通文庫関係者は大勢つどうはずだ。スレで知り合った(なんだか、普通の友人たちと以上に、すんごいややこしいことに関して、さんざんいろいろ話し合って、もはや戦友のような気がしないでもないかたも少なくない)かたがたのうち何人かには、その場でお目にかかれるのではないかと思い、楽しみにしている。その前にいきなしどっかで刺されたりするのかなぁ。氷室さんの予言、はやくも成就されてしまうのだろうか……ううむ辞世の句をつくっておかねば。
いんやー、ダラダラ好きなように書かせていただいて、ババアのくりごとに長らくおつきあいいただきまして、ほんとうにどうもありがとうございました。みなみなさまにこれからもステキなことがたくさんたくさんありますように。
じゃ、また。
(2004年5月5日 久美沙織)
公開日 2004.6.18
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