「ハレンチ学園」
永井豪の出世作。当時としては過激な内容で非難をうける。その反論として後半で文部省とハレンチ学園間で戦争を勃発させるなど、マンガ方法論を破壊する傑作とも評される。
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集英社というのは、もともと、マンカでアテた会社なんですね。
わたしらが小説ジュニアに参加したころは、あの少年ジャンプが、ハレンチ学園で、PTAの目のカタキにされていた頃でございました。少女マンガ系には、りぼん、マーガレット、ぶ〜けなどなどがありました。
わかってるひとはわかってると思いますが、少女マンガの「絵柄」にこそ、一ツ橋系と音羽系の違いがクッキリハッキリみてとれるものだったりします。
でもって、わたしは、「りぼん」と「別マ」と「花とゆめ」がすきだったんです。
だから、どーせなら、集英社でデビューしたい! と思うじゃないですか。
ところが……そこは……いまは知りませんよ、そんなことないかもしれませんけどね、少なくとも当時は、「虎の穴」でございました。
実はマンガ雑誌社としては後発だった集英社が、『ジャンプ』で大成功するにいたった秘密?作戦には、「友情・勝利・あとなんだっけ?」の三原則をあくまでもどの作品にもかならず貫くという大原則と、読者アンケート結果をおもいきり重視する「徹底した実利・実力主義」がありました。
人気が落ちたら、どんなに実績のある有名マンガ家でも、切る。
たとえばアンケート最下位が三回続いたら「連載のどんなに途中でも、無理やり話をねじまげてでも、できるだけ早く終了させ、連載をやめさせる」。
それが集英社の「社是」でした。
そのかし、まったくのポッと出の新人であっても、読者人気のトップをとればたちまち扱いがよくなり、当然大もうけ、巻頭をかざり、表紙をかざり、コミックスはどんどん出してもらえるわけです。
少年マンガの場合、モチコミ原稿や、新人賞の応募ももちろんありましたが、「偉い先生」「尊敬する先生」のアシスタントにはいって修行をつみ、誰かがうっかりシメキリに遅れたり、原稿をあげないうちにどこかに雲隠れしたりしたら(これを業界用語で「○○先生急病のため、休載します」などといいます)、すかさず、かねて「そんなこともあろうかと」用意してあった短編作品をさしだして載せてもらう(これを業界用語で「火事場泥棒」といいます)テがあった。ていうか、それ、わりとふつうで。だからほら、少年マンガって「そっくり」な絵柄のひと多いでしょ。
少女マンガ家さんの場合はある意味もっと過酷だったかもしれない。地方在住の才能あるティーンエイジャーがですよ、新人賞などに応募して、目をつけられると、とにかくまず高校を卒業したら、上京をすすめられるわけです。そして誰ひとり知人も友人もいない都会で、出版社がさがしてきたアパートの一室などにとじこめられ、書くべし、書くべし、書くべし……! になったりする。なにしろ週刊のペースっていうのはそりゃ地獄ですからねぇ。毎日、ただただ、描く日々。会う人間といったら、アシスタントと、担当編集者(←ふつう、マンガ家さんのところにとりにいきます。なぜなら、地方出身のウブなマンガ家さんは、東京の複雑な交通網を使いこなせないからです……偏見)だけ。そーして、男子といったら、担当だけ。で担当とデキちゃって、でもその担当は、師匠すじにあたる別の先生ともとうぜんデキていて、おそろしいシュラバがくりひろげられたり……したこともあるかもしれない。いや、ウワサですよ、ウワサ。
そのような、「拉致監禁」状態の少女マンガ家さんたちが、唯一、ハメをはずせ、天下におのが名と作品のとどろいていることを実感できる場所が出版社主催の「クリスマスパーティー」とか「新春恒例パーティー」とかで、ゆえに、まぁ、その絢爛豪華なことといったら(だって、お衣装にぐらいしかおカネつかいみちないんですから)。とあるパーティーでは、とあるすっごい有名で超一流なマンガ家の先生が、「さんど」お色直しをなさったのをわたくし、目撃したことがあります。
一見関係ないような話題が続きましたが、いやいや、実はこれが多いに関係あったんですね。
小説ジュニアの「新人」たちに対して、集英社は(たぶん他社もですが)、この「少女マンガ家」にあてはめられていたシステムを、そのまま、適応させたからです。
人権意識とか、著作権意識とか、作家の共闘体制とか、ネットによる横の連絡とか、そーゆーものがまだ未発達、いや、へたすると皆無な時代。
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