創 世 記
第5回  「えっ、うそ、わたしが?」



 前回、氷室さんの古典的なまでの正統的文学性と、素子ちゃんの革新的で親しみやすい口語文体(と同年代のオタク……ということばはまだなかったけど……な男の子たちに萌え要素をいかんなく発揮した最初の若年層作家であったこと)を、くっちゃべりましたね。
 で、コバルトがだんだん変容してくるんだよおおおお、それはそれはこわいぐらいにかわっちゃうんだよおおおお、とまるでホラー映画の予告編のようなことをいいましたが、いやはや、さすがにそれはちょっと気がはやかった。
 変容する前にはある程度の「かたち」があったわけで、まずはその「最初のかたち」のほうについて説明する必要がありましたね。あまりあわてずにいきましょう。

 いやはやあるところにはあるもんで、すんごいものを見つけました。サイトってありがたいですね。
 コバルト文庫の作家別リストです。年代別になってます。

 で、みつけたかったのは「飯田智」さんなのです。
 わたしにとっては、すっごい印象的なかたでした。

コバルト文庫全点目録  (ありさとの蔵

 これによると76年に「駆け足の季節」 79年に「小鳥飛んでみた」 80年に「さよならの日々」が出版されています。ちなみにその80年にわし本人の文庫デビュー作も出ておりますが……その後の年月を辿ると、「刊行数」でわたしと藤本ひとみさんが争ってて、わたしが敗れて去っていくさまがよーくわかってしまったりして、この表だけでいろいろと深読みができるわけですが……いやとりあえずハナシを戻して。

 なにしろ自分の作品の載ってない小説ジュニアはとっくの昔に捨ててしまったので、確認できず、再読もできないのですが、「飯田智さん」というかたが、たしか青春小説新人賞で大賞か佳作をおとりになって、紙面に現れ、わたしなどはたいへん衝撃をうけました。
 ものすごく美しくて、せつなくて、いかにも繊細な、完成度の高い小説だったのです。
 しかも「いまの空気」をたっぷりとはらんでいた。

 ちなみに飯田さんとわたしはたぶんお目にかかったことがないか、あったとしてもサラッと一瞬でザンネンながら記憶に残っていません。
 女性だったと思います。ショートカットでボーイッシュな。わたくしめより少しだけおねえさんだったと思います。

大島弓子
漫画家。『ミモザ館でつかまえて』で日本漫画協会優秀賞、『綿の国星』で講談社漫画賞をそれぞれ受賞。花の24年組のひとり。

 「駆け足の季節」だったり「小鳥」が飛んでみたり「さよなら」だったりするあたり、少なくともこのキーワードから推測するに、傷つきやすい、いかにも「青春」って感じのお作風だったです。わたしのザル頭の猫記憶もそーだというてます。
 わたし的には、飯田さんの作風は、初期の頃の大島弓子先生にカブリました。
 それも、……けっしてイヤなかたちではなくて。
 おおまた便利なサイトをみつけました。
 なんて精密なリストだ。管理人さま、ありがとうございます。


(C)白泉社
「さようなら女達」
著 大島弓子
→bk1 →ama →楽天

 大島弓子作品リスト  (White-Field

 「なごりの夏の」「つぐみの森」そして「さようなら女達」……この語感というか。
 「感性」というか。
 どういったらいいのでしょう。けっしてモロではないんです。すごい特別な用語をつかってるわけでもない。ふつうの日常のコトバです。でも、そのくみあわせの雰囲気が……空気が……すごくビビッドな部分が、ビミョーに似てるんですね。
 大島先生と、飯田さんは、いわば、「同じ血」を持ったかた、って雰囲気がした。
 わざとのようにつっぱなして、抑制をきかせた言い方にしているあたりも。


(ええ、実は新井さんのほうがよっぽどモロにかぶってるんですけど、なにしろ「星に行く汽車」で「すべて緑になる日まで」ですからね。こうまでモロだと、あからさまにオマージュなのがわかるので、あえて謎解きをする必要などまったくない。わかるやつにはわかる。とーぜんわかる。わかるやつしか読まないだろう、そういうわけで)

 それにしても。
 どこにいってしまわれたのでしょうか、飯田さんは。
 ふと気がついたら、いなくなってしまわれておられたのですが。
 そーとー好きだと思ってたはずなのに、文庫、手元に、一冊も残ってないんですよ。
 チン思うに、「すごいいいよ!」って誰かに貸してしまって、それっきり戻ってこなかったんじゃないかと疑ってしまうのですが……。









内田善美
漫画家。少女漫画家としては桁はずれの圧倒的画力と、詩的で幻想的な(あくまで現実と交叉した)ネームの巧さで高い評価を受ける。
参考 : 内田善美全仕事



水樹和佳
漫画家。ふかい情感を描きだすストーリーと、たおやかで繊細な筆致で、少女マンガ界では不動の人気をほこる。99年5月に「水樹和佳子」と改名。
公式 : 水樹和佳子のホームページ








(C)集英社 2001
『クララ白書』
著 氷室冴子
現在は新装版となっている。
→bk1 →ama →楽天




(C)集英社
『アグネス白書』
著 氷室冴子
→bk1 →ama →楽天

 よい作品を、うんと時間をかけて、すこしだけお書きになられたかたでした。
 あまりに繊細すぎて、耐えられなかったのかなぁ。
 ていうか、「勢い」がついてしまった頃のコバルトは、寡作では生き残れなかったのです。
 ゆっくりしかかけないひとには、活躍の場があたえられなかったのです。
 内田善美先生の華麗にして緻密なマンガが、とてもじゃないけどマンガ業界のペースでは生産できっこないのと同じことです。
 水樹和佳(のち和佳子)さんも、かなり苦労してました。
 徹底的に物語を作りこみたいひと、画面の端から端まで細かくカキコミたいひと、作品のスミズミまで自分でコントロールしたいひと(たとえアシさんを使うとしても)、には、マンガの出版ペースって、殺人的なんですよね。

 読者は週刊マンガや月刊マンガのペースになれているので、好きな作家の作品は、とにかくすぐにも続きを読みたいんですよ。三ヶ月に一冊ペースなんて「まどろっこしい!」といわれてしまう。
 しかし、そこまで早くって、なかなかそーそー書けるもんじゃないんですね。
 それをこなすためには、おのずから「シリーズ化」する必要があり、「いつものキャラ」をだして、「いつものありがちな事件」をやるのが一番。で、氷室 さんがクララをやりアグネスをやり、あっしがおかみきをやるようになったりするんですが……それはまだ先の話。

 ハナシがいったりきたりしてすみません。

 飯田智さんの、たぶん「駆け足の季節」を読んだのがきっかけで、わたしはとうとう「よーし、書いてみよう!」と決心しました。

 その頃には、コバルト文庫もできてましたし。毎月新刊が出てましたし。

 そうそう。コバルト文庫ってわりと新しいんですよ(わたしの世代にとっては)。その前は……なんていったか忘れちゃいましたが、おっそろしくレトロな雰囲気の、新刊でも「古本」にしか見えないような、ノベルスサイズでぺたんこに薄いやつがありましたね。正直、あれは「貸本」っぽかった。自分のものとして持っていたくなるような、持っていることが嬉しくなるようなものではなかった。まだ、装丁とか、版形とか、ましてイラストなんてものに、そうそう目配りがきくような時代ではなかった。それが、76年ですか、文庫がスタートした。先にあげさせていただいたサイトをみていただけばおわかりのように、最初は「書きおろし」ではありませんでした。既存の作品、小説ジュニアに連載をした作品などを、まとめて、出版したわけです。

 けど、飯田さんの「デビュー作」は、わりとすぐに文庫になった!
 でもって、コバルト文庫は……少なくとも、その前にあった、なんともいえないアレよりは、だいぶオシャレで、その当時の「いまどき」の中高校生に「手にとりやすい」雰囲気だった。

 そして……魔の誘惑企画がいきなり持ち上がったのです。
 小説ジュニア本誌に「原稿募集!」の告知が出たのです。
 それもあなた、枚数無制限、内容無制限、応募資格無制限、ようするになんでもありで、しかも、「すべての」原稿を、編集部のひとが読んで、批評添削して送り返してくれる! というのです。
 「ホントカイナ」正直わたしは思いました。「んーな無謀な企画、すぐにつぶれるんじゃないだろうか」
この予測はきわめて正しく、この企画は確かにほんの何ヶ月かで頓挫するんですがね。

 これを見て(いたって功利的なわたしは)「そうか、そんなチャンスがあるなら、やってみるだけやってみよう。とにかく自分の書くものがどのぐらいなモノなのか、プロにみてもらえるんだし。がんばれば、わたしにも雑誌に作文(←その当時の意識)を載せてもらえるかもしれない。なにしろわしらの世代の作家はほとんどいないんだから、若いってだけで、女子大生だってだけで、これはゼッタイにウリになるわ!」(←この推察もほんとうに正しい)

 ちなみに……わたし作文には自信がありました。自分でいうのはなんですが、あざといほどうまかったです。なぜでしょう? たぶん、ひとよりたくさん本を読んでたから……と、母方の祖父の「ほらふき」の血を濃ゆーくうけついでしまったからではないかと思うんですが(この祖父についてはすんげぇおもしろいのでそのうちチャンスがあったら語ります)。

 小学生のころから読書感想文などで、図書券をかせいでは、親に隠れてかわなければならない本を買うのにアテテいました。また、少女マンガ雑誌などの作文募集では、「これ」とターゲット(懸賞品)をさだめて……たとえば、和服一セットとかがあたる! なんてゴージャスな企画だと、生きてピンピンしているうちのばーちゃんが病気でもう死にそうなことにして、着物姿のおばあちゃんと幼い頃のじぶんの大切な思い出などという「まったく存在しなかったもの」をへーぜんといかにもリアルに書いて、もちろん「第一席、盛岡市の菅原稲子さん」になって、買うと何万円かしただろうお着物セットをゲットしたりしておりました。目的のためなら嘘をつくのは屁とも思わないやつでしたねー。

 そーそー、読書感想文のバヤイはですね、みなさま、コツの第一は、他の同年代のフツーの学生のみなさんがまず読まないような(そして選者の先生がたが「オッ、これは!」と思うに違いないような)、やや小難しくいオトナ向けの本を選んで、しかしあくまでコドモらしく凛々しくも可愛らしい微笑ましい、選者が「こいつは良い子だなぁ」とおもっちまうような感想を書くのが、きっちり賞金をゲットするのがコツですよ。
 ……ちなみのちなみに、英語スピーチコンテストでは失敗しました。自分の貧血闘病体験を、病院パニック抱腹絶倒の原稿にしてしまい(もちろん英語の先生に文法などはしっかりチェックもしてもらいましたが)東北地区大会で、おおウケにウケたのに(どのスピーチよりわたしのがいちばん笑いが多かったです! それはゼッタイです。涙ぬぐってわらってる先生がたもいました)なんの賞にもはいらず、残念賞ももらえず、シュンとしましたです。学問系のスピーチというのは、わらかしてはアカン、マジメでなアカン、あえて感情をゆさぶるとするなら、わらかすんではなくて感動で泣かせねばあかんねんなぁ、と反省しました……要領のいいのも考えもので、あまり要領がいいのがモロだとソンをしてしまう場面というのもあるもので……何の話だっけ?


 あっそうそう。

 おりしもその時チャイコフスキーが……ではなくて、小説ジュニアが例の暴挙としかいいようのない企画をたちあげたまさにその時、わたしは大学一年生になっていました。78年です。小学生から進学塾にかよってマジメに受験勉強をやらされてた(というかやるのがあたりまえだと思っていた)わたしにとって、大学一年生の夏休みというのは、生まれてはじめておとずれた「長い長い、なんでもスキなことができる空白の時間」でした。
(小学生でも中学生でも夏休み冬休みなどなどは進学塾に毎日通っていたわけです)
 幸い? 大学では、ほとんどのコマが二学期性をとっていて、一学期のラストのテストでいちおーその「単位」には決着がついてるので(落第していないかぎり)、宿題って、出ないんですね。





イマヌエル・カント
近代のドイツ哲学者。その思想は批判哲学と呼ばれる。『純粋理性批判』などが有名。

 某上智大学哲学科では、一週間に6つドイツ語の授業枠がありました。なんでそんなにあったのかというと二学期からはカントとかの「原書」(←これがまた、日本語訳で読んでもなにがいいたいんだかさっぱりわからねー悪文の見本みたいな最悪のヤツ)を講読させられる予定だったからです。はっきりいって外国語学部ドイツ語科より、厳しかったらしいです。とうぜん、6つの授業に等しいだけの数の教科書があり、先生がたは4人おられて(おふたりはフタ枠ずつ担当しておられたのですね)毎日、それぞれの授業が10ページとか20ページとかザックザックと進みましたから、授業期間中はほぼ毎日、少なくとも何時間かは、明日の授業のドイツ語が読めるように(いつアテられて訳せといわれるかわかったもんじゃないんですから。生徒の数もそんなに多くないので、アタる確率は低くないし)とにかく辞書をひきまくる毎日でした。おかげで視力2.0をほこるわたしが一時的に乱視になり(だって辞書の字ってメッチャ細かいんだもん)、たまさかでかけたオフコースのコンサートで、席がいっとー後ろのほうだったもんだから「……やばい……マジ乱視すすんでる……ギターのネックが二本に見える……」「あれ、ダブルネックの12弦だよ」などという事件もあったりしましたが、おりしも、ドクタースランプアラレちゃんが人気だったこともあり、うまれてはじめて丸眼鏡をつくって喜んでかけたりしておりました(いま思うと、わたしってコス好きですね)。そーそー、哲学科の授業っつーとドイツ語もさることながら時々ポッとラテン語とかギリシア語とかが出てきたりなんかして、それがまたとーくの黒板にかかれるわけですが(遠くに座ってるのはもちろんできれば先生と目をあわせたくないから)、日本語ならば、漢字でもカナでもなんとなくぼんやりとしかみえなくてもだいたい予想つけてノートとれますが、なにしろラテン文字やらギリシア文字なんて知らないんですから。どこがどうまるまってて、ボーがでっぱってたりとかひっこんでたりするとかぜんぜんわかんないので、主として隣のともだちのノートをみせてもらって書き写しておりましたっけ……ついでにテストの時も彼女の答案をせっせとかきうつし……何の話だっけ?


 そうそう。夏やすみ。
 「生まれてはじめて」のほんとうの、なにをやってもいいお休み。
 そこで、いきなり、ゲンコウ書き出しちゃうんですから、わたしもワーカホリックというか、貧乏性というか、「ぼーっとする」ってことがニガテなタイプなんですねぇ。

 書きました。ゲンコウ。

 今思うと、小説ジュニアの募集要項には「詳しいこと」は書いてなかった。
 どんな原稿用紙を使うべきなのか、とか、どんなペンを使うべきなのか、とかは書いてなかったと思う。
 書いてたら、ちゃんと遵守したと思うもん。

 で、わたしは、「コクヨ」のA4サイズのヨコガキ原稿用紙を一冊買ってきて、4Hのシャーペンで原稿を書きました。
 なぜなら、わたしは右利きで、おまけに筆圧が強く、HBとかだとヤワなコクヨをつきやぶる可能性があり、かつまた、タテガキだと、書いていくにしたがって右手の掌の部分で既に書いた部分のエンピツ跡をきっちりとこするため、ゲンコウがおそろしく「きたなく」なってしまうにきまっていたからです。

 当時、女の子は、4Hとかの薄いエンピツを使うのがハヤッテた、ということもありますが。
 それがいけないことだとは少しもまったく思っておりませんでした。

 ワープロ応募原稿がほとんどの昨今、こんなこたぁいまさら言うまでもないかもしれませんが、万が一手書きゲンコウで勝負しようとお思いになるかたに忠告します。
 ヨコガキはだめです。
 薄いエンピツもだめです。
 編集部のひとの大半は、「近眼」あるいは「老眼」なので、くっきりと大きくはっきり読めて目にやさしいゲンコウでないと「読みたい」キモチになりません。
 「読みづらい」それだけで、あなたのゲンコウの評価は……その内容に一切かかわらず……評価ランクが2つ3つ落ちます。
 ちなみにわたしは富士通OASYSワープロ→パソコンに移行するまでは、おもに、LIFEのB4サイズの罫の薄い用紙に、ピグマのサインペンの「3.0」か、製図用のロットリングで、ゲンコウをかいてました。まず、用紙そのものがデカければ、それだけ字も大きくなります。ピグマやロットリングはインクの乾きが速いので、ガーッとかいてもそんなにこすりません。LIFEは紙質はとってもよいのですが、コクヨなどとちがってあいにく罫と罫のあいだにまったく余裕がないので、まちがえたときは、スキマにかきこむことはできません。その一枚を最初から書き直すか、大量にかきなおした分だけ、別紙をセロテープではっつけるか、キリバリして、ゲンコウにしていました。……すごい時代だったな。
 ワープロ印字なさる場合も、募集要項などを遵守するか、とにかく「くっきりはっきり読みやすい」をこころがけましょう。行間と字間を工夫するなどして。

 のちに知ったのですが、わたしの「応募原稿」は、封書をあけられたとたんの即刻、「ボツ」の箱に、つっこまれていたそうです。
(そーだ、封書の書き方についてもいろいろあるんですが……『新人賞の獲り方おしえます』のいっこめに懇切丁寧に説明してあるので、そっちみてください)

 ボツ?
 いや、「とりあえず却下」というべきか。
 たしか、どんな作品であろうとも、必ず全員に批評返却する約束だったんじゃないのか? とわたしも思いますが、この件に関して小説ジュニア編集部につっこんでたずねてみたことはありません。たぶんバックレたんじゃないかと思います。予想をはるかに超えるものすごい分量のゲンコウがとどいちゃったらしいです。しかも9割9分までが「問題外」なゲンコウが……いずれにしろ、時効ですね?

 ちなみに、この「無謀企画」から拾われたのは、わたしの知る限り、わたし、のみです。
 唯一です。
 なんかもうおひとり、いちおー、連絡はしたらしいけど、おことわりになられたかたがあったとかなかったとか?

 なんだか自分が、『孤児アニー』か、ディッケンズの小説の浮浪児になって、ハシの下で震えているところを、お金持ちのおじさんに拾われたヤツのような気がします。なにがきらいってわたし、寒いのとヒモジイのとビンボーなのがきらいで……(泣)。でも、おとぎばなしってほんとうにあるのよね。ごくたまにはね。♪あーさになればー、トゥモロー、なみだのあともきえて……おっと、このぐらいならジャスラック(日本音楽著作権協会)はみのがしてくれるだろうか。アニーのメインテーマはわたしのこころの賛美歌です。

 その「唯一」の生還者という恵みをうけた御礼として、あるいは江戸のカタキを長崎で……ではありませんが、わたしも、『新人賞の獲り方おしえます』のいっこめで、発刊一週間以内限定で、しかも本をかわないと手にはいらない特製原稿用紙(分量最小)ならば、「どんなゲンコウでもとにかく批評返却する」をやってみました。往生しました。270通きました。全部やりおわるのにあしかけ3年かかりました。3年のあいだにひっこしてしまって、せっかく送ったのに戻ってきちゃったのが10通ぐらいありました。かくも「応募原稿」の量というのは、ナメてはいかんものなのです。
 応募なさるほうのかたが理解なさるべきは、とにかく、数の中に埋没したらおわりや! ということです。なんらかのかたちで目を惹く、最初に封筒をあける人間に好感を持たせる、それがどんなにどんなに大切なことか……というのをかきたくて『新人賞』を書いたりすることになるわけですが、それはまだまだ先の話。

 もとへ。
 カメラ、ズームしてください。「ボツ」の箱に。

 どんな天使が魔法を使ってくれたのか、小説のかみさまがお恵みをたまわったのか。
 そこに、ふと、手が伸びるのです。
 ひとりの女性の、たおやかな手が。

 小説ジュニアで当時もすでにたぶん現役最年長でいらっしゃったのではないかと思われる宇田川さんとおっしゃる編集部の女性が(宇田川さんの娘さんがいまコバルト編集部にいたりもします)ふと、なにげなく、その、コクヨのA4ヨコガキ4Hシャーペン書き、という、本気で他人に読んでもらいたいとはとても思えない外見のゲンコウをひろいあげてくださった。あらま、ヨコガキ? と眉をひそめつつ、一行読んでみた。次の行も読んでみた。その次も。

 ぼくはその日、朝っぱらから気分が悪かったもので、朝メシも適当に食ってオヤジの書斎をノックし、『行ってくるよ』とだけいって家をとびだしたんだ。
 この『行ってくるよ』というコトバは実に便利じゃないか。どこにが省かれててもオヤジにはナンとなく、学校にっていうように聞こえるらしいし、ぼくのほうではプールに直行しちゃうつもりでも、少なくとも、ウソはついていないんだから。いくらぼくだって、そうたびたびウソはつかないようにしているんだ。

「このコに連絡を取ってちょうだい」宇田川女史は、明星編集部から配属がえになったばかりの若手編集者辻村氏の机に、A4ヨコガキコクヨの束をポンと投げた(とみてきたようなウソをつく)。「イケるわ。つかえる感触がする。でも、まず、タテガキに、それに、もうちょっと濃いエンピツで書きなおすように言うのよ」

 辻村氏はゲンコウを拾い上げ、一枚目にくっついていた連絡先を見て、目を丸くする。
「連絡先って……上智の学生みたいですけど……阿佐ヶ谷の修道院付属女子寮ですよ!? 帰省先は……うわぁ、岩手県だ」
「ますますけっこう」宇田川女史はニヤリと笑いながら腕を組んだ(とますます見てきたようなウソをつく)。「いまどきねぇ。ちょっとおもしろそうなコじゃない?」

 修道院に電話をかけるのに自信のなかった辻村氏は(ほんとか?)速達ハガキを書いた。

「ご応募いただいた作品について相談したいことがあります。都合のいい時に編集部にきてほしいので、とりあえず、連絡ください。電話番号はコレコレです」

 イエズス孝女会修道院付属女子寮清恵寮では、さまざまな大学に所属する(かならずしも洗礼をうけた信者ではないが、他の宗教を信奉していないことと、できれば毎晩のミサに出席することを期待されている)約40名の生徒あての郵便物は、それぞれのカギを外出時に預かるのと同じタナに、分類される。
 確か一月のことだったと思う。
 ある日、大学からかえったわたしは、知らないひとからの速達ハガキをみつけて、きょとんとし、玄関ホールのソファにすわって、そのまま読んだ。

 地下一階、地上四階の修道院全体に、アフリカ原住民が猛獣を倒したときのごとき雄たけびが轟きわたり、居合わせた先輩のみなさん(わたしはまだ一年生だったから後輩はいない)およびシスターのかたがたが、「なんだなんだ」とハシってきた。前にそのアホな一年生はやはり雄たけびをあげたことがあったが、それは地下風呂場で掃除中にハダシのアシの上に極大なゴキブリにのられたからであったから、「……またなにかムシでも出たのかしら?」「けたたましいことね」などのカイワがかわされたかもしれない。
「やったー!」太ゴチ活字で、一年生は叫んだ。「集英社だぁー!」

 ちなみに、小説ジュニアなどという、いかがわしい本を読んだこともさわったこともなかったシスターのなかには、そんなあやしい編集部にいくと、ハダカにされて、いけないポーズをとらされて、へんな写真をとらされて、脅迫されるのではないかと心配してくださって、いっしょについていってあげましょうか? とそうとうな覚悟をもっておっしゃってくださるかたもあったが、

「だいじょうぶです」一年生は両目をキラキラさせながら、ハガキをにぎりしめた。「これは、わたしの……栄光へのスタートです!」

(ここらへんの描写には一部、誇張・脚色・勝手な空想・ウソ八百などあったことをお詫びいたします)

 ちなみに……気づいたかたは気づいてくださったのではないかと思うのだが、応募したのは夏休みであり、返事がきたのは一月であった。
 わたしはすっかり忘れてた。ていうか「やっぱダメだったんだなぁ」と思っていた。
 小説ジュニア本誌には、ある月から突然、例の企画の案内がパッタリなくなっていたし。
 誰かがそこで認められて、作家デビューした、なんつー話題もまるでまったくでなかった。

 とにかく……そんなこんなで……いちおー親にも「わたし作家になるかもしれない」などと長距離電話をかけてあわてさせつつ……わたしは神保町への道筋をチカテツ路線図で調べるのだった。
 それから何度も何度も何度も何度もかようことになる神保町を。


(C)集英社
「水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった」
「プラトニック・ラブ・チャイルド」収録。



イネコ
久美沙織氏の本名は稲子。

 そして……その年の3月(はやいなぁ)山吉あい作『水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった』が小説ジュニアに掲載されたのでした。ちなみに山吉というのは母方の旧姓で、あいはイネコのイニシャルですが、この名前は「ババアくさい」と不評だったので、次の作品の時には『六連星愛』(←これですばるいつみ、と読む)。星座の昴のうち目に見えるのは6つで、あっしはおうし座。アイにはまだこだわってました……最近だったらこのてーどのなまえはべつにたいしたことはないと思いますが、懲りすぎ、と不評だったので、次に、久美沙織、とつけました。
 すると、編集長に呼ばれて、コンコンと諭されました。宣伝部っつーのはいったいなんのためにあると思うか。書く作品、書く作品毎回ナマエをかえられたのでは、宣伝のしようもないではないか。
 わたしはテキスト主義で、作家なんてどーでもいいじゃんと思っていたのですが、言われて見れば自分も大島弓子先生の作品だぁ! ってわかれば読む、みたいなことがあるんで、じゃ、もうこれでいいです、ここでウチドメにします、というわけで、クミサオリはクミサオリになったのだよ。
 ついでにいうと、デビュー作の原題は『水曜日の夢はひどく綺麗な悪夢だった』だったのですが、おじさま編集部員のみなさまに、「ひどく」という単語は悪い意味につかうものなので、おかしい、「とても」にしなさい、と説得されて、しょうがないから(だってイヤだなんていおうもんならデビューさしてくれないかもしれないじゃん)それでいいですといいました。
 最近の「ヤバイ」もそうだし、ムカシなら「すごい」もそうですが、もともとは「よくない」意味なのに「程度がたいへん大きなこと」の比喩としてフツーに流通するよねぇ。
 『ひどく綺麗』が時代の気分だったし、わたしの気分だったし、あの小説の主人公の気分だったんですけど、それを主張するにはわたしはまだノンキャリア、しかも19歳、ミギもヒダリもわからないし、仲間というべき誰もいなかった。よって、「なすがまま」こーしなさいといわれるまんまにしてしまったりしてしまったりしてしまったのでした。いま思うと、ちょっとくやしい。

 画像は、デビュー作掲載の「4月号」(3月発売)とか、その続編で、「一次選考は通してやるから、応募しなさい」といわれて青春小説新人賞にちゃんと正式に応募したのに佳作にしかしてもらえなかった(アルルカンだって佳作なんですから文句はありませんが)『プラトニック・ラブ・チャイルド』収録の8月号とか、わたしが「たぶん作家でやっていける」とやっと思えた作品(巻頭もグラビアもやらしてもらった)『ガラスのスニーカー』収録のやつとか、なんかのキネンでとっといたやつとか、そのへんです。小説ジュニアで、わたしの手元にのこっているのは、これがすべてです。

 つづく。


原稿受取日 2004.3.28
公開日 2004.4.25

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