前回、氷室さんの古典的なまでの正統的文学性と、素子ちゃんの革新的で親しみやすい口語文体(と同年代のオタク……ということばはまだなかったけど……な男の子たちに萌え要素をいかんなく発揮した最初の若年層作家であったこと)を、くっちゃべりましたね。 |
これによると76年に「駆け足の季節」 79年に「小鳥飛んでみた」 80年に「さよならの日々」が出版されています。ちなみにその80年にわし本人の文庫デビュー作も出ておりますが……その後の年月を辿ると、「刊行数」でわたしと藤本ひとみさんが争ってて、わたしが敗れて去っていくさまがよーくわかってしまったりして、この表だけでいろいろと深読みができるわけですが……いやとりあえずハナシを戻して。 |
大島弓子 漫画家。『ミモザ館でつかまえて』で日本漫画協会優秀賞、『綿の国星』で講談社漫画賞をそれぞれ受賞。花の24年組のひとり。 |
「駆け足の季節」だったり「小鳥」が飛んでみたり「さよなら」だったりするあたり、少なくともこのキーワードから推測するに、傷つきやすい、いかにも「青春」って感じのお作風だったです。わたしのザル頭の猫記憶もそーだというてます。 |
(C)白泉社 「さようなら女達」 著 大島弓子 →bk1 →ama →楽天 |
「なごりの夏の」「つぐみの森」そして「さようなら女達」……この語感というか。 |
(ええ、実は新井さんのほうがよっぽどモロにかぶってるんですけど、なにしろ「星に行く汽車」で「すべて緑になる日まで」ですからね。こうまでモロだと、あからさまにオマージュなのがわかるので、あえて謎解きをする必要などまったくない。わかるやつにはわかる。とーぜんわかる。わかるやつしか読まないだろう、そういうわけで) |
内田善美 漫画家。少女漫画家としては桁はずれの圧倒的画力と、詩的で幻想的な(あくまで現実と交叉した)ネームの巧さで高い評価を受ける。 参考 : 内田善美全仕事 水樹和佳 漫画家。ふかい情感を描きだすストーリーと、たおやかで繊細な筆致で、少女マンガ界では不動の人気をほこる。99年5月に「水樹和佳子」と改名。 公式 : 水樹和佳子のホームページ (C)集英社 2001 『クララ白書』 著 氷室冴子 現在は新装版となっている。 →bk1 →ama →楽天 (C)集英社 『アグネス白書』 著 氷室冴子 →bk1 →ama →楽天 |
よい作品を、うんと時間をかけて、すこしだけお書きになられたかたでした。
読者は週刊マンガや月刊マンガのペースになれているので、好きな作家の作品は、とにかくすぐにも続きを読みたいんですよ。三ヶ月に一冊ペースなんて「まどろっこしい!」といわれてしまう。 |
これを見て(いたって功利的なわたしは)「そうか、そんなチャンスがあるなら、やってみるだけやってみよう。とにかく自分の書くものがどのぐらいなモノなのか、プロにみてもらえるんだし。がんばれば、わたしにも雑誌に作文(←その当時の意識)を載せてもらえるかもしれない。なにしろわしらの世代の作家はほとんどいないんだから、若いってだけで、女子大生だってだけで、これはゼッタイにウリになるわ!」(←この推察もほんとうに正しい)
ちなみに……わたし作文には自信がありました。自分でいうのはなんですが、あざといほどうまかったです。なぜでしょう? たぶん、ひとよりたくさん本を読んでたから……と、母方の祖父の「ほらふき」の血を濃ゆーくうけついでしまったからではないかと思うんですが(この祖父についてはすんげぇおもしろいのでそのうちチャンスがあったら語ります)。
小学生のころから読書感想文などで、図書券をかせいでは、親に隠れてかわなければならない本を買うのにアテテいました。また、少女マンガ雑誌などの作文募集では、「これ」とターゲット(懸賞品)をさだめて……たとえば、和服一セットとかがあたる! なんてゴージャスな企画だと、生きてピンピンしているうちのばーちゃんが病気でもう死にそうなことにして、着物姿のおばあちゃんと幼い頃のじぶんの大切な思い出などという「まったく存在しなかったもの」をへーぜんといかにもリアルに書いて、もちろん「第一席、盛岡市の菅原稲子さん」になって、買うと何万円かしただろうお着物セットをゲットしたりしておりました。目的のためなら嘘をつくのは屁とも思わないやつでしたねー。
そーそー、読書感想文のバヤイはですね、みなさま、コツの第一は、他の同年代のフツーの学生のみなさんがまず読まないような(そして選者の先生がたが「オッ、これは!」と思うに違いないような)、やや小難しくいオトナ向けの本を選んで、しかしあくまでコドモらしく凛々しくも可愛らしい微笑ましい、選者が「こいつは良い子だなぁ」とおもっちまうような感想を書くのが、きっちり賞金をゲットするのがコツですよ。 |
あっそうそう。
おりしもその時チャイコフスキーが……ではなくて、小説ジュニアが例の暴挙としかいいようのない企画をたちあげたまさにその時、わたしは大学一年生になっていました。78年です。小学生から進学塾にかよってマジメに受験勉強をやらされてた(というかやるのがあたりまえだと思っていた)わたしにとって、大学一年生の夏休みというのは、生まれてはじめておとずれた「長い長い、なんでもスキなことができる空白の時間」でした。 |
イマヌエル・カント 近代のドイツ哲学者。その思想は批判哲学と呼ばれる。『純粋理性批判』などが有名。 | 某上智大学哲学科では、一週間に6つドイツ語の授業枠がありました。なんでそんなにあったのかというと二学期からはカントとかの「原書」(←これがまた、日本語訳で読んでもなにがいいたいんだかさっぱりわからねー悪文の見本みたいな最悪のヤツ)を講読させられる予定だったからです。はっきりいって外国語学部ドイツ語科より、厳しかったらしいです。とうぜん、6つの授業に等しいだけの数の教科書があり、先生がたは4人おられて(おふたりはフタ枠ずつ担当しておられたのですね)毎日、それぞれの授業が10ページとか20ページとかザックザックと進みましたから、授業期間中はほぼ毎日、少なくとも何時間かは、明日の授業のドイツ語が読めるように(いつアテられて訳せといわれるかわかったもんじゃないんですから。生徒の数もそんなに多くないので、アタる確率は低くないし)とにかく辞書をひきまくる毎日でした。おかげで視力2.0をほこるわたしが一時的に乱視になり(だって辞書の字ってメッチャ細かいんだもん)、たまさかでかけたオフコースのコンサートで、席がいっとー後ろのほうだったもんだから「……やばい……マジ乱視すすんでる……ギターのネックが二本に見える……」「あれ、ダブルネックの12弦だよ」などという事件もあったりしましたが、おりしも、ドクタースランプアラレちゃんが人気だったこともあり、うまれてはじめて丸眼鏡をつくって喜んでかけたりしておりました(いま思うと、わたしってコス好きですね)。そーそー、哲学科の授業っつーとドイツ語もさることながら時々ポッとラテン語とかギリシア語とかが出てきたりなんかして、それがまたとーくの黒板にかかれるわけですが(遠くに座ってるのはもちろんできれば先生と目をあわせたくないから)、日本語ならば、漢字でもカナでもなんとなくぼんやりとしかみえなくてもだいたい予想つけてノートとれますが、なにしろラテン文字やらギリシア文字なんて知らないんですから。どこがどうまるまってて、ボーがでっぱってたりとかひっこんでたりするとかぜんぜんわかんないので、主として隣のともだちのノートをみせてもらって書き写しておりましたっけ……ついでにテストの時も彼女の答案をせっせとかきうつし……何の話だっけ? |
そうそう。夏やすみ。
書きました。ゲンコウ。
今思うと、小説ジュニアの募集要項には「詳しいこと」は書いてなかった。
で、わたしは、「コクヨ」のA4サイズのヨコガキ原稿用紙を一冊買ってきて、4Hのシャーペンで原稿を書きました。
当時、女の子は、4Hとかの薄いエンピツを使うのがハヤッテた、ということもありますが。 |
のちに知ったのですが、わたしの「応募原稿」は、封書をあけられたとたんの即刻、「ボツ」の箱に、つっこまれていたそうです。
ボツ?
ちなみに、この「無謀企画」から拾われたのは、わたしの知る限り、わたし、のみです。 |
なんだか自分が、『孤児アニー』か、ディッケンズの小説の浮浪児になって、ハシの下で震えているところを、お金持ちのおじさんに拾われたヤツのような気がします。なにがきらいってわたし、寒いのとヒモジイのとビンボーなのがきらいで……(泣)。でも、おとぎばなしってほんとうにあるのよね。ごくたまにはね。♪あーさになればー、トゥモロー、なみだのあともきえて……おっと、このぐらいならジャスラック(日本音楽著作権協会)はみのがしてくれるだろうか。アニーのメインテーマはわたしのこころの賛美歌です。
その「唯一」の生還者という恵みをうけた御礼として、あるいは江戸のカタキを長崎で……ではありませんが、わたしも、『新人賞の獲り方おしえます』のいっこめで、発刊一週間以内限定で、しかも本をかわないと手にはいらない特製原稿用紙(分量最小)ならば、「どんなゲンコウでもとにかく批評返却する」をやってみました。往生しました。270通きました。全部やりおわるのにあしかけ3年かかりました。3年のあいだにひっこしてしまって、せっかく送ったのに戻ってきちゃったのが10通ぐらいありました。かくも「応募原稿」の量というのは、ナメてはいかんものなのです。
もとへ。
どんな天使が魔法を使ってくれたのか、小説のかみさまがお恵みをたまわったのか。 小説ジュニアで当時もすでにたぶん現役最年長でいらっしゃったのではないかと思われる宇田川さんとおっしゃる編集部の女性が(宇田川さんの娘さんがいまコバルト編集部にいたりもします)ふと、なにげなく、その、コクヨのA4ヨコガキ4Hシャーペン書き、という、本気で他人に読んでもらいたいとはとても思えない外見のゲンコウをひろいあげてくださった。あらま、ヨコガキ? と眉をひそめつつ、一行読んでみた。次の行も読んでみた。その次も。 |
「このコに連絡を取ってちょうだい」宇田川女史は、明星編集部から配属がえになったばかりの若手編集者辻村氏の机に、A4ヨコガキコクヨの束をポンと投げた(とみてきたようなウソをつく)。「イケるわ。つかえる感触がする。でも、まず、タテガキに、それに、もうちょっと濃いエンピツで書きなおすように言うのよ」
辻村氏はゲンコウを拾い上げ、一枚目にくっついていた連絡先を見て、目を丸くする。 修道院に電話をかけるのに自信のなかった辻村氏は(ほんとか?)速達ハガキを書いた。
「ご応募いただいた作品について相談したいことがあります。都合のいい時に編集部にきてほしいので、とりあえず、連絡ください。電話番号はコレコレです」
イエズス孝女会修道院付属女子寮清恵寮では、さまざまな大学に所属する(かならずしも洗礼をうけた信者ではないが、他の宗教を信奉していないことと、できれば毎晩のミサに出席することを期待されている)約40名の生徒あての郵便物は、それぞれのカギを外出時に預かるのと同じタナに、分類される。
地下一階、地上四階の修道院全体に、アフリカ原住民が猛獣を倒したときのごとき雄たけびが轟きわたり、居合わせた先輩のみなさん(わたしはまだ一年生だったから後輩はいない)およびシスターのかたがたが、「なんだなんだ」とハシってきた。前にそのアホな一年生はやはり雄たけびをあげたことがあったが、それは地下風呂場で掃除中にハダシのアシの上に極大なゴキブリにのられたからであったから、「……またなにかムシでも出たのかしら?」「けたたましいことね」などのカイワがかわされたかもしれない。 |
ちなみに、小説ジュニアなどという、いかがわしい本を読んだこともさわったこともなかったシスターのなかには、そんなあやしい編集部にいくと、ハダカにされて、いけないポーズをとらされて、へんな写真をとらされて、脅迫されるのではないかと心配してくださって、いっしょについていってあげましょうか? とそうとうな覚悟をもっておっしゃってくださるかたもあったが、 「だいじょうぶです」一年生は両目をキラキラさせながら、ハガキをにぎりしめた。「これは、わたしの……栄光へのスタートです!」
(ここらへんの描写には一部、誇張・脚色・勝手な空想・ウソ八百などあったことをお詫びいたします)
ちなみに……気づいたかたは気づいてくださったのではないかと思うのだが、応募したのは夏休みであり、返事がきたのは一月であった。
とにかく……そんなこんなで……いちおー親にも「わたし作家になるかもしれない」などと長距離電話をかけてあわてさせつつ……わたしは神保町への道筋をチカテツ路線図で調べるのだった。 |
(C)集英社 「水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった」 「プラトニック・ラブ・チャイルド」収録。 イネコ 久美沙織氏の本名は稲子。 |
そして……その年の3月(はやいなぁ)山吉あい作『水曜日の夢はとても綺麗な悪夢だった』が小説ジュニアに掲載されたのでした。ちなみに山吉というのは母方の旧姓で、あいはイネコのイニシャルですが、この名前は「ババアくさい」と不評だったので、次の作品の時には『六連星愛』(←これですばるいつみ、と読む)。星座の昴のうち目に見えるのは6つで、あっしはおうし座。アイにはまだこだわってました……最近だったらこのてーどのなまえはべつにたいしたことはないと思いますが、懲りすぎ、と不評だったので、次に、久美沙織、とつけました。 |
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画像は、デビュー作掲載の「4月号」(3月発売)とか、その続編で、「一次選考は通してやるから、応募しなさい」といわれて青春小説新人賞にちゃんと正式に応募したのに佳作にしかしてもらえなかった(アルルカンだって佳作なんですから文句はありませんが)『プラトニック・ラブ・チャイルド』収録の8月号とか、わたしが「たぶん作家でやっていける」とやっと思えた作品(巻頭もグラビアもやらしてもらった)『ガラスのスニーカー』収録のやつとか、なんかのキネンでとっといたやつとか、そのへんです。小説ジュニアで、わたしの手元にのこっているのは、これがすべてです。
つづく。 原稿受取日 2004.3.28
公開日 2004.4.25 |