番外編 : 皆川ゆかさんからのメール

早見さま

 御無沙汰しております。
 Aliaへの掲載、おめでとうございます。サイトの写真を見ました。早見さん、かっこいいです。
 かくいう私は、『真タロ8』の『《吊るされた男》、そして……』上下巻が4月末に発行され、5年ぶりに小説の書き下ろしを出すことができました。ちなみに、この本、帯に堂々と「SF」と入れてあります。ヤングアダルトでSFと銘打つのは無理だといい続けた作家さんたちへのちょっとした挑戦でもあります(笑)。
 まぁ、無視されるかもしれませんが、ヤングアダルトでSFを名乗ったという事実は残りますから。
 さて。
 このたびメールしましたのは、「このライトノベルがすごい!」の秋元文庫についての記述を遅ればせながら読ませていただいたことによります。
 じつのところ、私はティーンズハートだけでなく、秋元にも縁がありますので、想い出とともにつらつらとしたためてみた次第。すでにお話ししたことも多いかと思いますが……御参考になれば幸いです。

 1985年から86年(昭和61年)の間、私は秋元文庫へ原稿の持ち込みを行っていました。後に、講談社X文庫ティーンズハートから発行されることになる『ぱらどっくすティー・パーティー』と『すくらんぶるティー・パーティー』(講談社から出版されたものは大幅に改稿されています)です。
 秋元文庫が世紀を越え、未だに存続しているのかは寡聞にして知りませんが、昭和末期の当時でさえ、一見して傾いている会社でした。神楽坂の赤城神社から下ったところにあった社屋は本当に、斜めになっていたのです。
 そんな会社を選んだ理由は、ごく簡単なものでした。秋元文庫の位置付けはすでに早見さんがお書きになった通りですが、それ以上に、当時、若向けの長篇小説の出版を行っている会社は少なく、しかも、持ち込みの原稿(それも300枚クラスのもの)を読んでくれるとなると、さらに数が絞られてしまうからです。
 大学生だった私は、そのころ主流だった新人賞の規定である、100枚程度の小説が書けなかったので、必然的に持ち込みで長編小説を読んでくれるところを選ばざるを得ませんでした。完全な長篇型作家だったのです(江戸川乱歩賞などの所謂、大人向けの本格ミステリの賞などはジャンル的な意味からいっても興味がありませんでした。メフィスト賞のようなノンジャンル、ノンジェネレーション、しかも、枚数制限なしの賞がある今の人が羨ましい)。そこで、文庫の奥付に載っている編集部の連絡先へ電話を入れ、「持ち込みで300枚程度の小説を読んでもらえるか」と片端からきいていったわけです。このとき、コバルトの編集部にも実は電話を入れているのですが、当時、コバルトは新人賞への投稿のみで、長篇の持ち込み原稿は読まないということでした。
 それで、長篇の持ち込みを読むといってくれたのが、秋元文庫だったのです(ソノラマ文庫のほうにも持ち込んでいるのですが、そのあたりの話は複雑になるので、またあらためていたしましょう。後に、『獅子王』にも再度、持ち込みをしています)。
 とまれ、そのような経緯で秋元文庫へ持ち込み、ものになりそうだということで、いろいろ書き直しを命ぜられ、86年の段階で、編集者のほうからは「出版に耐えるクオリティがある」と評価を受けるに至りました。けれども、見た目ですでに傾いていた会社は経営さえも傾いていたものか、もはや、秋元文庫では出せないといわれ、他社への持ち込みを薦められました。
 このときの原稿が『ぱらどっくすティー・パーティー』です(当時の題名は『不協和音ぱらどっくす』でしたが、ティーンズハートで出版される際、改題されました。混乱するので以下、『ぱらどっくすティー・パーティー』でいきます)。『ぱらどっくすティー・パーティー』は他の長篇一本とともに、徳間書店アニメージュ文庫へ持ち込まれました。アニメージュ文庫を持ち込み先に選んだ理由は、友人がアニメージュでバイトしていたからという安直なものでした。紹介ですね(今は電撃文庫にいるTさんが学生アルバイトとして『まるまる太田貴子』を編集していた時期じゃないでしょうか。作品を読んでくれた編集さんは、今、ジブリにいる高橋望さんです)。
 ただ、当時のアニメージュ文庫は無名の新人のオリジナルの作品を出すという状況にはなかったようで、残念ながら、といわれてしまいました。
 その後、同じ原稿を富士見書房『ドラゴンマガジン』へ持ち込みました。ただ、こちらは雑誌立ち上げの忙しい時期であったため、原稿を読む時間が相手方にほとんど取れず、引き上げるという結果になります。
 どうしたものか、と手もとに戻した原稿を眺めて思案していた矢先、書店で講談社出版研究所アルゴス新書というのを見つけます。これまでは文庫用の持ち込みでしたが、新書で若向けの小説を出しているところがあるならそこでもいいと思い、即、電話を編集部へ入れました。
 持ち込みOK。原稿を抱えて茗荷谷の講談社出版研究所へ向かいました。
 そこで編集さんに会ったものの、なんととうのアルゴス新書がなくなってしまい、原稿を読んだところで出版のしようがないといわれてしまいました。ただ、
「講談社のX文庫でティーンズハートというのがある」
 と教えられました。講談社出版研究所で出していた四六本の若向け小説の何冊かを、すでに文庫化という形で下ろしてもいるといいます。
「紹介してあげようか」
 私は飛び付きました。そりゃぁ、是非とも。
「ただ、ティーンズハートは集英社のコバルトと競合する文庫だ。かりに、ティーンズハートで採用されなかったとしても、講談社の人間が読んだとなればコバルトの人間は絶対に読まない。それでもいいか?」
 構いません。
 もはや、これまであちこちまわっていたのです。しかも、出版に漕ぎ着けられなかったのは、もっぱら相手側の事情で作品そのものの不出来によるものではないと私は考えていました。
 もう17年も前の話ですから、ぶっちゃけで話してしまいますが、実は、このとき、講談社出版研究所の編集さんは『ぱらどっくすティー・パーティー』の全文を読んでいません。持ち込んだその日、ぱらぱらと何ページかをめくって、これまでの経緯をきいただけです。それで講談社のX文庫ティーンズハートの編集部へ電話を入れてしまったのです。考えてみれば、すごいことです。
 読まなくて大丈夫なんですか、ときくと、「ちょっと見ればわかるよ」 といわれ、講談社出版研究所を訪ねてから一時間もしないうちに、茗荷谷から坂を下ったあたりにある護国寺の喫茶店で、私は講談社の編集さんに紹介されていました。
「うちのほうに持ち込まれたんだけど、そちらのほうに向いているかなと思って」
 これが87年の6月末の段階です。
 で、『ぱらどっくすティー・パーティー』は一週間ほどでX文庫の編集者が発売を決定し(87年7月7日に決定の知らせを受けました)、9月5日に発行されました。ちなみに同じ月に綾辻さんが『十角館の殺人』でデビューしています。綾辻さんに会ったとき、その話をしたらかなりびっくりされました。
 私のデビュー作の発売決定は異様なまでに早かったわけですが、これはすでに早見さんも御存知なように、当時のティーンズハートでは圧倒的に作家と作品の弾数が不足していたためです。一定のクオリティに達した原稿(しかも、300枚!)を持って来る新人など、普通はいません。なにしろ、ティーンズハートは先に名前の出たアルゴス新書を出していた講談社出版研究所の四六本の文庫化や、書けそうなライターへの絨毯爆撃的な注文(ライター予備軍の女子大生までもが作家として発注を受けていた!)で数を揃えていました。
 ティーンズハートは少年マガジンのある第三編集局の企画部で5冊、文芸局で5冊というのが基本的なラインナップでした(最盛期)。前述の弾数不足という状況は企画部での話で、文芸のほうはわかりません……私は企画部の作家だったので。
 ティーンズハートが二つの部署でつくられていたことを知る人は、決して多くはありません。漫画の部署のつくる少女小説と、小説の部署のつくる少女小説。この並列状況が後に捩れを生み出していくわけですが、とりあえずはティーンズハートの創刊時の話を。
 なぜ、ティーンズハートが二つの部署で編集されるようになったのか、真相は薮の中です。
 私のきいた話では、企画部の田中部長のもとへ花井愛子さんが少女小説文庫の企画を持ち込んだというものです。田中部長は早見さん的には、『TVマガジン』の初代編集長といったほうがわかりやすいかもしれませんね。花井さんが編集部を訪れた際、田中部長の上司であった内田勝氏が、
「彼女と仕事をやりたまえ」
 と霊感を受けて、内容をきく前に指示したという伝説もあります(笑)。内田氏は、かつて田中氏が『ぼくらマガジン』『少年マガジン』の編集者であった時分の編集長です。少年誌初の100万部突破を成し遂げたことで伝説の編集長といわれている、あの人ですね。
 もちろん、早見さんがコラムでお書きになっているように、少女小説文庫となる以前の段階で、ノベライゼーション文庫としての「X文庫」は存在していたわけです。これも、内田=田中ラインの企画部の仕事ではあります。先にも書きましたが企画部は第三編集局の一部署として存在していました。
 部署の問題はティーンズハートの歴史を語るうえで、非常に重要です。ティーンズハートの創刊に端を発する少女小説ブームが「商品」として消費される小説のブームであったなら、「メーカー」としての作家や出版社についての情報(人事や部署)を検討しないことには正確な歴史認識をすることができません。商品開発の裏面研究の部分がすっぽりと抜け落ちてしまうのです。
 さて。
 早見さんはすでによく御存知のことと思いますが、この書簡が公開されることも念頭に置き(笑)、一般の読者のために講談社の編集局の構造について記しておきます。私の記憶をベースにしているので誤解などあったら、御寛恕ください。
 講談社には第一から第七までの編集局があり、それぞれが購買対象やジャンルの異なる出版物を発行しています。たとえば、第一は文芸局。文芸の中でもさらに、細分化されていて文芸第一とか、文芸第二とかあります。文芸第一には『群像』の編集部があったと思います。文芸でも純文学を扱うところです。文芸第二は主に大衆文学系の四六本を出しているところです。『小説現代』編集部はここにあり、桐野夏生氏の『OUT』の単行本はここから出ているといえば、わかりやすいでしょう(すでに文芸第二は「文二」、文芸第三は「文三」などと呼ばれます)。文芸第三は、講談社ノベルスを出していると書けば、新書系のエンターティンメントのための部署と御理解いただけるでしょう。もちろん、文芸第三はメフィストクラブのような四六本の業書も発行しており、四六ならば文二、といった、絶対的な枠組みがあるわけではありません。文三の場合、部署設立の主旨や主要業務が新書の編集というものなわけですが、その業務をおろそかにしないかぎりは他の業務へ手を出すことも一定許されていると解すべきでしょう。
 一方、第三編集局が『少年マガジン』などの少年マンガと『ヤングマガジン』『モーニング』といった青年マンガ、第五編集局が『少女フレンド』『なかよし』といった少女マンガという形です。これらの編集局も文芸局同様、細かな編集部に分課しています。
 X文庫が文庫局ではなく、マンガの編集局である第三編集局で編集されていた理由の本当のところはわかりません。ただ、推測することはできます。早見さんが書かれているとおり、X文庫は講談社が全社的に支援した劇場用アニメーション映画『SF新世紀レンズマン』のノベライズに併せて創刊されました。しかし、当時の文庫局に「マンガなど!」という空気があったことは否めません。ノベライズ文庫であるX文庫を文庫局管理とすることに反撥があったと観るべきでしょう。
 往時の文庫局の、マンガに対する差別感を理解するのに役立つ話があります。
 X文庫創刊と同時期か若干後に、富野由悠季氏の『機動戦士Zガンダム』が講談社より発行されました。今は角川文庫に収載されている小説です。永野護のイラストにソフトカバーという形態で出版されたこの本は、文芸局ではなく、第三編集局で編集されていました。第三編集局(社内や関連する人間たちは三局と呼んでいます)には『コミックボンボン』の編集部があるといえば理由も理解できましょう。当時の『コミックボンボン』はガンダムブーム、ガンプラブームの牽引役となっていました。
 販売的も好調であったことから、これを文庫にするという話が出てきました。ところが、講談社文庫が拒絶し、『Z』は角川文庫に入ることになったのです(X文庫へ入らなかったのは、X文庫がかつてのノベライズ文庫から少女小説文庫へ変容する過程、あるいはその後に『Z』文庫化の話が出たものと思われます。すぐ手もとに角川文庫版『Z』がないのですが、初版の年月日を引き合わせれば、ティーンズハート史との関係を鑑みることもできましょう)。
 それから十数年経って、拙著、『機動戦士ガンダム外伝THE BLUE DESTINY』が講談社文庫へ収載されたおり、解説で福井敏晴氏が講談社文庫にガンダムが入ることを感慨深く記している背景には、そのような過去の空気があります。
 話がかなりずれてしまいました。
 ただ、「小説」でありながら「マンガ」という、X文庫の奇妙な社内的な位置づけは御理解いただけたと思います。第三編集局企画部は雑誌編集の部署ではなく、X文庫の編集とムック本の編集を主要業務としていました。いうならば、遊撃隊的な編集部です。X文庫がティーンズハートへとブランドをかえてからもしばらくはムック編集が文庫の編集の傍らで行われました。『THE 超合金』や劇場用アニメーション映画『AKIRA』のムック本が企画部で編集された本です。
 花井さんから持ち込まれた少女小説文庫の企画がX文庫の新シリーズとなったことまで書きました。文芸局はどこで絡んだのか。文芸のほうも同様の企画を考えており、相乗りの形となったときいたのですが……先日、これについての話を当時、文三に席を置き、現在、ティーンズハートの編集長を務めておられる鈴木宣幸氏よりおききすることができました(鈴木氏は清涼院流水氏の担当でもあった方です)。
 正確な時期はわかりませんが、文三へ86年末から87年頭の段階までに竹島将氏から三好礼子氏が紹介されていたそうです。三好礼子氏はバイク系のライターで、彼女の小説を出せないかと文三は竹島氏より打診されていたそうです。竹島氏はエンターティンメント系の作家で文三でも多くの本を出されていました。ティーンズハートでも何作か出されるわけですが、交通事故で早逝されました。
 ちょうどそのころ、企画部のティーンズハートの話が入り、文三は三好氏を紹介する形となります。文三でなぜそのまま三好氏の作品を出版しなかったかといえば、おそらく、内容的なものでしょう。三好氏が書いていたのはいうならば、バイクを扱った「青春小説」であり、当時の講談社ノベルスで出すにはいささか違和感があったと思われます。
 このような作家やライターの多部署への紹介は実のところ、珍しいものではありません。たとえば、90年代に入ってからティーンズハートでデビューし、桜桃書房その他でBL小説を書いている原田やよいさんは、もともと『群像』の新人賞へ応募していて編集者の目に留まった方です。編集者のほうから純文学よりも若向けの恋愛小説のほうが向いているのではないかと提案され、ティーンズハートへ紹介されたとのことです。
 三好礼子氏の作品はティーンズハート創刊時のラインナップ、あるいは、直後に刊行されています。彼女を紹介し、X文庫ティーンズハートの作家としたのは文芸局の人間だったわけですが、編集まで文芸局が行っていたかは判然としません。
 早見さんのほうに三好氏のデビュー作があるようなら確認してほしいのですが……本文にカットのようなものはありませんか?
(早見注:上の作家さんの本を調べてみると、章ごと、あるいは節ごとに小さなイラストが入っているものがほとんどです。このことだと思います)
 挿画以外に行の間に絵を入れてあるのが文芸局で出したティーンズハートの編集上の特徴です。同様の編集は児童書などに多く見受けられます。十代へ向けた文庫ということで、青い鳥文庫などの編集が参考にされたものかもしれません(ちなみにティーンズハートの校閲基準は初期の段階では「児童書」でした。そのため、私はしばしば用字の面で校閲サイドと衝突を繰り返しました)。
 これがなければ三好氏の作品は企画部で編集されたことになります。三好氏の紹介者であった竹島将氏のティーンズハート収載の作品は企画部編集だったので、三好氏の本も企画部で編集されていたと、私は考えているのですが。
 そうなると、純粋に文芸第三編集部で手懸けた最初のティーンズハートは何だったのか、どの作家だったのかはけっこう重要なものであるように思えます。林葉直子氏あたりが純文芸の最初期の作家なのでしょうが、このあたりは資料的な確認が必要ですね。
 すでにおききかもしれませんが、企画部と文芸第三側の代表的な作家を挙げます。
■企画部
・花井愛子
・折原みと
・皆川ゆか
・秋野ひとみ
・若林真紀
・倉橋耀子
・青山えりか
・津原やすみ
■文芸
・小野不由美
・風見潤
・中原涼
・林葉直子
・井上ほのか
・ゆうき☆みすず(鈴木裕美子さんの別PN)
・神崎あおい
 作家同士の面識は基本的に企画部と文芸第三ではありませんでした。右手と左手がまったく別のことをしていたという感じでしょうか。
 とりあえず、90年初頭までの作家陣はこんな感じです。
 花井愛子の名前に隠れがちなのですが、かなりバラエティに富んでいます(コバルトよりも、実は幅が広かったように見えますね、こうして書いてみると)。
 しばしば誤解されるのですが、ティーンズハートの作家イコール花井愛子文体ではありません。改行を増やすよう、編集サイドより求められはしましたが、それさえも絶対的なものではありませんでした。ティーンズハートの作家の多くが改行中心の文体を選んだのは、本人たちの資質、あるいは市場の要求に対する選択でした。
 下半分がメモ帳になるとまでいわれた花井さんの文体。
 ティーンズハートでもあそこまでやっていたのは花井さんだけです。そういう意味ではあの文体は花井愛子の資質であり、戦略だったといえるでしょう。花井さん自身は90年代に入ったあたりから、それまでの文節単位で区切る文体はやめてしまいます。若干、改行が多い程度の文体になっていくのですが、一時代を築いた彼女に対するイメージは相変わらず、「メモ帳」でした。変容しながら、なおも流布されたイメージで捉えられ続ける。その背景には読まれずに「こんなもんだろう」と判断されてしまう状況がありました。花井さんだけではなく、ティーンズハートの作家全員がそうだったといえるでしょう。もちろん、世間に流布されたイメージがプラスの要素として働いたことも事実です。
 ティーンズハートだから書店で手に取ってもらえる。花井さんの初期の文体はそれまで小説を読まなかった層を、文庫の購買層にしました。だから、ティーンズハートの出現によって小説が消費されるものとなったという指摘は正しいといえましょう。ティーンズハートのブランドイメージによって、ティーンズハートの棚の前に集まる人々はティーンズハート的なものを期待して花井愛子以外の本を買いました。結果、花井愛子的でない作家の作品が読まれることもあり、期待外れの落胆を味わう読者もいたわけですが、一方でそのまま、その作家のファンとなることもありました。少女小説のブームがそれまで本を読まなかった層が「マンガの絵が表紙と挿絵に入っている文庫本を読む」ことだったと解するとこの流れはいっそうしっくりくると思います。もちろん、ブームの終焉とともにそうして入った層のほとんどは去っていったわけですが。
 ただ、ブームの中で入ってきた小中学生は趣味というものが未分化な状態だったためでしょうか。私個人についていうなら、長く今日まで支えてくれている読者として残ってくれています。もとから本を読むようになる層が残ったものかもしれませんが、少女小説ブームがきっかけとなったとはいえるでしょう。
 改行の多い文体=少女小説という見方は決して正しいものではなく、事象の一側面を切り取ったにすぎません(私の小説はごく一部を除いて版面率が異様に高いものでした。『運命のタロット』の第一巻についてはかなり改行を意識していますが、この理由は後述します)。
 90年代に入ってから角川スニーカー文庫で男のコを中心に人気を博した、あかほりさとる氏、中村うさぎ氏の作品も、改行という点のみについて見るならば同様でした。コミカルなテイストで改行の多い「男のコ向け小説」というものが存在していることを見逃してはなりません。無論、コメディ的なものとしては、両氏に先立って神坂一氏の『スレイヤーズ』シリーズがありましたが、90年代にスニーカー文庫を中心としてあかほり、中村両氏が執筆した作品は大胆な改行や擬音といった手法を用い、より「ライト」な小説を確立したともいえます。
 90年代の男のコ向け小説において採用された手法は、漫画家によるイラストというパッケージ、改行や会話を重視してスピーディな展開をする本文、購買層が求める題材選択(主にアニメ的、マンガ的要素。後に萌えと呼ばれる要素として細分化)であるといえます。
【本当はこの時代、伊東岳彦氏らが積極的に作品の内外で語っていた「燃える」の「燃え」要素があって、90年代前半に音だけ似てるけれど、意味的にはまったく異なる「萌え」が出てきたことを考えねばならないわけですが……私は、「燃える」というのが90年代頭の人の求めていたツボの要素で、それ以降に、別のツボ要素として「萌え」というのが出てきたという感じで捉らえています。消費される「萌え」の問題とかは根の深い問題なので、今度、沖縄に行ったときにでも語り合えればよいと思っております】
 これらの手法の連動が、購買対象層こそ違え、実はティーンズハートで為されていた点は記憶しておく必要があるでしょう。90年代の「ライトノベル」が成立していく過程では「改行の多い、スピーディな小説」が若い読者を得る牽引力となった時期のあることは否定できません。
 従来、本を読まない層を文庫の棚の前に引き寄せる起爆剤は、女のコを対象としてまず実践され、その後、男のコにも適用された。そう考えるのが妥当でしょう。もちろん、ブームだから読んでいる層は先にも書きましたが、すべてが読み続ける層となるわけではなありません。ただ、ブームがあることによって、本に触れる機会がそれまで以上に増えたということを見逃すべきではないと思います。
【余談・花井愛子という作家について──以前、花井さんの作品について、御本人へ、「あなたは40ページの読み切り少女マンガを文庫一冊にするという発想で書かれているのではないか」 と訊ねたところ、肯定的な返事をいただいた記憶があります。一方、花井さんの後に事実上、ティーンズハートのトップを張った倉橋さんは、濃密なドラマ展開を売りにしていました。まったく対照的な発想であったわけです】
 もっとも、花井愛子の投じた爆弾はあまりに大きなものでした。
 ティーンズハート=読みやすい小説というイメージは、ブームのおりには力となりましたが、ピークが過ぎた段階ではティーンズハートの他の作家までもがマイナスイメージに晒されることになりました。
 90年か91年ごろだったでしょうか。私は知人のつてを頼ってとある週刊少年漫画誌(講談社ではありません)へマンガ原作の持ち込みができないか打診しました。その際、当該編集部の人間は知人へ、
「少女小説はキャリアとして認められないから、持ち込みではなく、普通に原作賞へ投稿するようにいってくれ」
 と答えたそうです。
 一方で同じ編集部の人間がマンガ原作者の払底に悩み、「どうして新人が来ないのか」「直木賞作家の大沢在昌もマンガ原作をやっていたくらいじゃないか」と洩らしていたとききます。
 そのときの私のやるせない感情はご察しいただけるでしょう。
 消えていった作家も多いわけですが、持ち込みの新人やライターといった有象無象へ無理矢理書かせて、実戦投入という企画部のシステムは、そうでもなければ絶対に「少女小説」の世界へデビューしなかったような人間を「少女小説家」にしました。津原さんや私が少女小説家であるということは、あんな編集部でなければありえなかったでしょう。
 しかし、そういった特殊な状況で現れた作家たちは、極端ないい方をすれば、生き残ってはならなかったのです。いうならば、私たちはアイドルであり、消費されねばならなかったのです。なまじ歌がうまかったためにアイドルでも微妙な位置に行ってしまうコとかがいるでしょう。アイドルでありながら「実力派」とかいう表現をされて、まったく売れないだけではないけれども、跳ねない。プロダクションとしては手堅いがおいしくない。
 生き残り組はそういう位置付けになっていきます。
 もともとティーンズハートは中高生を購買対象とした「ジュニア文庫」としてスタートしました。花井愛子さんが「イチゴ世代」と呼んだ87年から89年ごろに15歳前後だった層、つまり
1972年から74年くらいに生まれた子供たちを対象としていました。
「ティーンズハートは徹頭徹尾、二番手戦略で考えた」
 花井さんはそう語っておられました。実は花井さんはコバルトとすげ替えるためにティーンズハートの構想を持ち込んだのではなかったのです。コバルトにないものをティーンズハートとして提案することで、市場において補間し合うというのが花井さんの考えでした。足りない商品を提供したわけです。
 だからこそ、ティーンズハートはコバルト以上にブランドへ依存しました。先にも書きましたが、ティーンズハートだから売れた時代があったのです。下駄を履いていたといえましょう。バブルです。
 ピンクの背表紙、少女マンガの絵というパッケージ。女性のペンネームによって演出される「お姉さんの書いている小説」。
 作家個々人や作品ひとつひとつの、パッケージの中身としての価値は二の次だったといえます。作家と作品のそれぞれにきめ細やかな対応をして、商品を売っていくというタイプの文庫ではなかったといえるでしょう。
 ですから、ブームの終焉とともに、それまでプラス要素として働いていたものが重い軛となって作家たちへ乗しかかってきました。花井愛子さん自身が作風をかえても評価を受けることがなかったこと、私がとある週刊少年漫画誌の編集者から間接的にされた評価。それらはイメージによって読まれず、こんなものだろうと片付けられる状況です。
 ティーンズハートで売れていたとき、私は「おかしい」と思いました。私の作品がこんなに売れるわけがない(笑)。絶対にバブルがはじける、と。同様の感覚は津原さんも持っていたそうです。いや、私の知る、ライトノベルにかかわった人間で今なお、この業界で仕事をしている人間、すべてが「おかしい」と感じていたともいえます。ピーク時において、なんとか次のための準備をしていた人間だけが生き残っているのかもしれません。
 多くのブームがそうであるように、ピーク時にそのメインターゲットは下がりはじめました。当初、中高生であったティーンズハートの支持層は小中学生へ移っていきます。あまりにパッケージ面を意識したために、ブームとなることで「ピンクの背表紙」はすっかりダサくなってしまいました。小中学生が手に取るようになると、上の層は「あんな子供のもの、触れるのも恥ずかしい」といいはじめます。
 そうして、ティーンズハートそのものが児童書ではない子供の文庫として認知されていきます。

 このとき困ったのは、読者年齢層が高かった作家です。当時、ファンレターを私はデータベース化し、年齢分布を調べていたりしました。89年の段階で、高校一年生と小学校六年生のあたりにふたつの山ができていた私は、ティーンズハート購買層全体が低年齢化していく中で、上の山を切らざるを得なくなりました。
 編集部の中でもこのような流れに有効な一手を求める動きが出てきます。
 これがホワイトハートの創刊に繋がっていくわけですが、結果的に読者年齢層の上がってしまった(生き残ってしまったアイドル歌手)の救済にはなりませんでした。ティーンズハートからの移行組として小野不由美氏がしばしば挙げられますが、小野氏の場合、新潮のファンタジー大賞受賞後、外部のファンタジー作家としてホワイトハートへ入ったというのが正しく、ティーンズからホワイトへの持ち上がりではありません。

 これで91年あたりの状況ですね。
 世間でもそろそろバブルが崩壊し、出版社でも過剰在庫を控えはじめます。在庫も資産として課税されるために、経費削減の名のもとに返本された本は裁断され、重版未定(事実上の絶版)となるまでの期間が短くなっていく……そういう時代がやってきます。
 思いのほか長くなってしまったので、90年代のティーンズハートとホワイトハートや、他社の話はまたあらためて書き送れればと思います。BLの先駆けとなった桜桃書房のエクリプスノベルの創刊にも私は一枚噛んでいたりもするので、早見さんや久美さんの書かれない裏面史を多少なりとも補間することができるやもしれません。

 早見さんのコラム、興味深く読ませていただいております。資料との照合、たいへんと思いますが、いよいよライトノベルの爛熟期ともいうべき90年代篇です。メディアミックスという怪物をどう早見さんが記していくのか楽しみです。特に、角川書店のお家騒動からメディアワークスの設立、角川書店の赤字問題といった点は微妙ですが、「なぜ、角川グループがライトノベルに熱心なのか」という話にかかわってくるので是非、虎の尾を踏む気持ちで書いてくださると嬉しいです。
 早見さん、久美さんのコラムによって、作品論、作家論と切り離された形での歴史というものが、ライトノベルと称される小説を読んでいる人たちの基礎教養となれば素晴らしいですね。
『このライトノベルがすごい』の方々にも宜しくお伝えください。

                         皆川ゆか

P.S. 文中、敬称は面識のある方のみ「さん」付けとしました。


原稿受取日 2004.6.23
公開日 2004.6.26
インデックスへ
第12回
80年代後半のコバルト文庫について および蛇足
『このライトノベルがすごい!』へ

皆川ゆか
第7回の註も参照。

公式サイト
皆川ゆか資料刊行会電子広報室
Alia
「Alia」はイタリアの幻想文学アンソロジー。昨年発行された1号に、日本の現代作家として、早見の短篇「月の娘」(講談社文庫「十二宮12幻想」所収)が翻訳、掲載された。
(早見裕司 注)
「真タロ」
「真タロ」は「真・運命のタロット」。「運命のタロット」から続いて現在までに21冊を数え、旧刊の復刊希望、オークションではプレミアがつく逸品。
(早見裕司 注)
「《吊るされた男》、そして…」
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存続しているのか...
現在は主に戦史などの本を出している。
(早見裕司 注)
























































































綾辻行人
気鋭の「新本格」ミステリの担い手。「時計館の殺人」で日本推理作家協会賞。奥様は小野不由美氏。





















































「OUT」
桐野夏生作。97年「このミステリーがすごい!」年間アンケート1位を獲得し、98年日本推理作家協会賞受賞。04年米国のエドガー賞に日本人で初めてノミネートされる。
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「レンズマン」
第5回の註を参照。





















「機動戦士ガンダム外伝THE BLUE DESTINY」
講談社文庫(2002)
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清涼院流水
96年「コズミック 世紀末探偵神話」で第2回メフィスト賞受賞。「流水以後」という言葉が生まれるほどミステリ界に影響を与える。「流水大説」を掲げる。
竹島将
84年「ファントム強奪」でデビュー。90年に亡くなるまで62作を書き上げた伝説的な作家。映像の演出にも関わり、またバイクにも精通している。
三好礼子
第5回の註を参照。







原田やよい
ボーイズを中心に著す。「タンデムボーイズ」「本気でラブモーション」など。
























林葉直子
第6回を参照。




















































































伊東岳彦
漫画家。「宇宙英雄物語」「アウトロースター」など。







































大沢在昌
ハードボイルド作家。「新宿鮫 無間人形」で直木賞を受賞。ほか吉川英治文学新人賞など受賞暦多数。























































































この原稿は第10回まで公開された時点で書かれたものです。