創 世 記
第11回  「『おかみき』が教えてくれた“愛”に関しての深遠な問題」



 たしかあれは集英社か講談社の少女マンガ系のパーティーでした。ふと、どうみてもピンクハウスまたはPOWDERのワンピースをお召しになったすっごく背の高くて顔がちっちゃくて細い女のひとがツカツカとこちらに近づいてきて「くみさおりさんですよね?」とやや甲高い早口でおっしゃいましたです。「わたし、めるへんめーかーです。いつも読んでます!」「おお! めるさんでしたか! 存じてます存じてます、読んでます」握手!

 で、それから、ハガキとか手紙とかでなんだかんだ文通をくりかえし(当時はサイトとかメールとかそーゆーもんはなかったのです)やがて「ねーねー、こんどいっしょにしごとしようよ」という話に、そらなりますわな。

「めるちゃん、イラストいーっぱい描くとしたら、どんなの描きたい?」
「ぜったい女の子!」めるちゃんは断言しました。「かわいい女の子、できればいろんなタイプおおぜい! でもって、みんなそれぞれいろんなお着替えをするの!」
「女の子おおぜい……しかも着替え……? ううむ……したら女子校ものかなぁ」
「いい、いい。女子校ものなら制服がかけるわ。夏服と冬服と、少なくとも二種類はかけるわね」
「ちょっとまて。転校したら? 転校したのに、もとのガッコともつながってて、あっちこっちいったりきたりする必要があって、そーゆーシーンが頻出したら、あっちの学校とこっちの学校と、それぞれの夏服と冬服と、少なくとも四種類描けることになるよね」
「ウレシー!」

 そーなんです。あの『おかみき』は、「そんな理由」で、あーなったんです。
 めるへんめーかーが「いろんなお洋服」を描けるようにすることを念頭におき、それもなるべく「いろんな制服を描けるように」おかみきの構成は、周到に練られたのであります。
 めるちゃんとの出会いがなければ……めるちゃんが、かわいいお洋服といろんな制服を描くのがそんなにも好きでなければ、この世におかみきはありえなかったというわけです。

 ちなみにしょっちゅう聞かれて答えたのでいまさらですが、わたしには女子校経験は「まったく一度もありません」。「カッコいいおねえさま」にポーッとなった経験もなければ、かわいい下級生からラブレターをもらった経験もなければ、お嬢様学校の「でしてよ」「およしになって」「ごきげんよう」などなど文化に染まったことも、はい、まったくありません。
 このへんのリアリティーは、実は例の、もとビートルズファンクラブ日本支部幹部にしてのちの『あみん』のサイン大量政策担当(時効だよね、ともう一度確認)の友人からの「精密なレクチャー」のおかげだったのでした。
 っていうか……わざわざ取材したわけではなくて、彼女と毎日しゃべってるともう抱腹絶倒というか、アンビリーバボーというか、メモをとらずにいられないというか。とにかく「ネタだらけ」なんだもの。彼女は幼稚園の時から、一時短期間だけおとうさんの転勤で九州方面だかに転校した以外はずーっとバリバリの四谷フタバ(漢字でないなぁ)で、しかも、「将来はきっとシスターになろう」とこころに誓ったひとで、成績優秀な超優等生でした。フタバは薄青い修道服も美しいサンモール会の牙城で、しかも四谷駅前交差点の向かいは東京でもかなりデッカイほうの教会であるところのイグナチオ教会(イエズス会系)でした。線路の向こうは迎賓館だし。うちの母校(上智)はCIAの巣窟とずーっといわれてるし。
 都内でもここほど、夷敵文化密度の高い場所、は、他にそーそーないんちゃいますかね。


















池田理代子
漫画家。代表作に『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』など。作家、エッセイスト、声楽家など、幅広い分野で活躍している。
公式 : 池田理代子オフィシャルサイト




『おにいさまへ』
著 池田理代子
書影は中公文庫版のもの。
→bk1 →ama →楽天

 くだんの彼女はまさに、男女七歳にして席をおなじうせず、みたいな生活をマジ18歳までおくってきたわけで、その世界は、公立の共学(しかも時々は国立付属、時々は地元のフツーの学校)を、一匹オオカミ同然でテンテンと渡り歩いてかなりスサンで孤立した精神生活を送ってきたわたしにとっては、見たことも聞いたこともないほど「純粋」で、「善意たっぷり」で、ほとんどファンタジーな異界そのものだったのです。おかみき(あー、いきなり通称でかいてますがこれはいまだにわたしの前世の代表作といわれるところの『丘の家のミッキー』全10巻のことです)における未来(みくとよみます。おかみきの主人公にして一人称の語り手です)の「フツー考えられないほどオクテで鈍感でとんでもなくトンチンカンな感性」は、あれは、全部が全部私の創作というわけではありません。というか、この某友人から聞かされた「とある異界で、推奨されないた資質」を、やや誇張したもの、演繹したもの、に他ならないものだったのです! 
 おまけにヤツは、池田理代子さまの大ファンでもあり、(わたしはあのあまりに華麗すぎる絵柄は、どっちかというと……だったのですが)傑作だからぜったいに読みなさい!と『おにいさまへ』とかを読まされたと。コレを彼女はもちろんマジで涙ぐみながら読んでいたわけですが、わたしは随所で驚嘆、驚愕、バレないように「爆笑」しながら読んでいたりして……すみません理代子さま、そしてファンのみなさま。
 ちなみに、さらについでにいっておくと、そんな彼女はなぜかピンクレディーの超ウルトラ大ファンでもあり、ピンクレディーの新曲が出ると、すかさず彼女んちに「特訓合宿」につれていかれ、ビデオを何度もくりかえし見せられて「ふりつけ」をマスターさせられました(彼女のうちはオカネモチだったので、ひろーいおへやもあったし、ビデオもあったんです)。そりゃもうマジに厳しく。完璧にできるようになるまで。
 なにしろ「ふたり」いないとピンクレディーできないもんね。もちろん、彼女が「踊りがうまいほう」のミーで、わたしが「ときどきよろけるほうの」ケイです。おかげさまで、わたしが彼女と出会う以前に既にあった「カルメン77」とかはよくわかりませんが、デビュー曲「ペッパー警部」は必須科目としてたたきこまれたのでかなりイケます。「渚のシンドバッド」から「モンスター」あたりまでは、いまだに曲がかかるとつい立ち上がりそうになります。わたしがいちばんすきだったのは「ウォンテッド」です。ちなみにやれるのはあくまでケイのパートだけです。さすがに最近ではところどころウロオボエになっちゃってますが。
(修道院付属女子寮では、外泊は基本的に禁止なのですが、前もって親元に「このひとのところなら許すリスト」を提出してもはらっておいて、いった先で、そちらの保護者さまに「このかたはたしかにこの日ウチにおとまりになられました」のハンコをもらってくれば、外泊可能でした。とーぜん、この友人のところには、なにしろしょっちゅういくし……学校からあまりにも近いし! なので、親からさっさと許可をもらってました。ちなみにその「確かにとまりました、先方のおかあさまの署名つき」証拠書類は、一学期ごとにまとめて親元に送られるため、「偽造」すると、すぐにバレるしくみになっていました……考えてみるとうちの寮もそーとーすごかったね……でもってその寮にはまた別の、キャンディーズ好きの先輩がいて、キャンディーズはなにしろ三人いないとできないので、クリスマス会や、兄弟寮であるところのトマス寮との合コン……っていうんでしょうかあの素朴なお集まりを……などがあると、わたしはおもにミキちゃんのパートを特訓され……「年下の男の子」と「微笑みがえし」ならまだかすかに踊れるかもしれません)

 いやー、この友人ひまり(あっ言っちゃった……でもいちおーこれはアダナです。本名はまったく別です)がいなければ、未来はあーゆーやつにはならなかったでしょう。ちなみにミクちゃんというのはひまりの妹(ものすごい美形。あっ、いいわすれてました。ひまりは恐ろしいほどの美女でした。あまりに美しいので、ノーメイクでも、実際のトシよりちょびっと年上にみえちゃうぐらいでした)の「芸名」で……デビューもしないうちからじぶんでじぶんに芸名をつけていたこの姉妹、さらにはそのあまりにもあまりにも美貌な母上(若いころのカトリーヌ・ドヌーヴそっくり)との出会いがなかったら、おかみきは、けっしてけっしてああはならなかったでせう。

 さらにいうと、あまり深く追求はしたくないのですが、当時のカレシ、すでに別れた前世のカレですが、そのカレが湘南は七里ガ浜在住であの「鎌倉学園高校」(←ちなみに桑田ケースケさまの母校でもある)に通っていた、というあたりも、おーいに、おーいに、関係なくはないといわざるをえないでしょう。朱海さま(あけみさまとよみます)のお通いになっておられたガッコのイメージはカマガクでしたし。

 はたまた、ほかならぬわたし自身の、おじいちゃんと呼んでましたがほんとは大叔父であるところの、東京から近いほうのじいちゃん(盛岡にももうひとりじいちゃんがいた)、えーと、ハハオヤのチチオヤのオトウトが、葉山の堀内に実際、すんでたんですね。森戸商店街のそばに。で、わたし自身、三歳の頃から、森戸の海は「わたしの海」と思っていた。でもって、うちの寮の「姉妹店」というか、幼稚園なんですが、これが、風越、という、堀内からバスで三つ目のあたりに施設をもってて、もともと寮のオリエンテーションやったのはそこだった、とかいうあたり……ようするに葉山はわたしにとってまぎれもなく「ジモト」だったわけです。
 これこのようなさまざまな要因が「おかみき」をあのようなものにしたてていったわけで、これはもう運命というか、あれはぜったいにわたしにしかかけなかった、あの時代にしかかけなかったものになってしまったわけだったりなんかします。


絵:めるへんめーかー

絵:竹岡美穂

 でもって、「おかみき」。
 平成バージョンではない、めるちゃん絵の元バージョンをお持ちのかたは、ご確認いただけばすぐにおわかりになられるように、最初は「一冊で終わる」予定だったのです。
 続きを書くつもりなんて、ぜーんぜんなかった。
 ただ、書いてみたらけっこう楽しかったので、当時のコバルトとしてはかなり異様に分厚くはなってしまいました。
 そして……売れたんですねー、これが。
 まちがいなく、まちがいなく、第一要因はめるちゃんの絵です。表紙です。
 あの明るい黄色のかわいらしい少女の絵。
 あれが「ヒラヅミ」になっていたからこそ、手にとってみてくださったかたがあり、「ちょっと読んでみようかしら」とおもってくださったかたがあり……そして読んでみて、ガッコーにもっていき、ナカヨシのおともだちに「ちょっとちょっと、これ読んで。笑えるから」とススメてくださり……
 あの憧れのゾーサツが、なんだかスゴイ勢いでかかったんですね。

 とーぜんのことながら
「続きを書け」
 編集部からオタッシがきました。
「そもそも、この話はまだちゃんと終わってないではないか。いくらでも続けられるだろう。続けられるだけ続けろ」(出た、ジャンプ方式!)

「……っていわれたんだけど」わたしはめるちゃんに相談しました。
「いいよー。やろうよー。またかわいいお洋服出してね♪」
「あいあいー」
 かくて、わたしは、楽しみつつ、また、さまざまに苦しみつつ(なにしろなに書いていいかわかんなくて苦し紛れに出したキャラが途中で消えちゃったりしてたりとかしますからね)、ゾクゾクと続編を書いたわけです。そりゃ求められれば嬉しいし。ウケれば嬉しいし。売れれば嬉しいし。たしか、おかみきを書くようになってから、はじめて、わたしも「ほんものの」ピンクハウスのお洋服を買ったんじゃなかったかなぁ。だってお高くてとても買えなかったですもの。「っぽい」のでガマンしてたのよそれまでは。











(C)集英社 1988
「花のお祭り少年団」
イラスト担当は、ページをめくると、ひきずり出された大腸がキラキラに薔薇しょって描かているというショッキングなのか華麗なのかよくわからないホラーマンガでいっせーをふーびした「ぽっくん」こと小林ぽんず先生。最近はマンガかいてないみたいだなぁ。ちなみにオビがなくなっちゃったんだけど、そのオビに名文句があって
「めい・ざ・わーるど・びー・ハッピ!」
これは当時なかよく沖縄旅行などしていた某マンガ家さんとそのアシさん一行をモデルにした作品で、「よっちゃん」として出てくるやつのモデルは、なにを隠そう、あの青山剛昌先生です(笑)。コナンどころか、YAIBA! が世に出るか出ないかの頃。昔はこーゆーひとだったんですけど、すっかり太りましたね、最近。コナンのはじめのほうに久美とか沙織とか波多野とかいうやつが登場するのは、たぶんこれのシカエシ?です。
(文責:久美沙織)




(C)集英社 1989
「みやは負けない!」
イラストは小原智佳さま。めるちゃんのご紹介でした。昭和45年ごろの「団地」の小学三年生の女子が主人公なのですが、そのモデルは、藤臣柊子です。彼女が語ってくれた「自分がちっちゃかったころ」を空想して書いたものです。
(文責:久美沙織)




「燃える月」
「繋がれた月」というタイトルを編集部に拒絶されたもの。イラストは梨木有実さま。「ぶ〜け」にお描きになられた作品を見てその絵の美しさに打たれ、編集部ごしにお願いしておひきうけいただきました。日本より台湾に近い沖縄八重山の架空の島をめぐる南海冒険サスペンス「秘宝もの」。定期購読していた『コミックおきなわ』(すでに休刊)などでドロナワ式に勉強した琉球方言がめったやたらに出てきます。「うっそー! → ゆくしー!」とか。『ちゅらさん』より何年はやすぎたのか……考えるのもむなしい。
(文責:久美沙織)



 しかし……
 J、L、N、Q、R、S、W、X、AA、AC。
 これ、なんだかわかります?
 実は、おかみきの1(実質は番号なし)から10までの「88のナントカ」のナントカの部分なのです。
 わたしは「おかみきを、おかみきだけを連続で書いていたわけではない」。
 あんだけウケてたのに。書けば売れたのに。読者も「早く次を」とどんどこ催促してきたのに。
 わたしにはどうしても、できなかった。
 で、その間に、「花のお祭り少年団」とか「みやは負けない」とか「燃える月」とか、実にまったくなんら統一感のない「単発もの」を書いた。

 なぜか?

 自分には自分をうまく分析できません。
 ただ、もしかすると、わたしは本来一作ごとに「真っ白に燃え尽きる」タイプのモノカキなんじゃないかと思います。ツヅキものを延々と書こうとすると、いかにもツヅキが読みたくなるような「ヒキ」というやつをやらなきゃならなくなる。それがめんどくさい。ていうか、そもそもさっさとすませてしまえばいいエピソードをあっちこっちひきずりまわして、わざとこんぐらがらせて、ややこしくして、話を長引かせなきゃならない。人間関係もどんどんややこしくして、さっさと仲直りすればいいやつにわざとケンカさせたり、そのケンカをながびかせるためによけいなことをチクるいやなやつを登場させてみたり、誤解を解決させるつもりがウラメに出て余計にドツボにはまっていくような、デス・スパイラル的なテクニックがいる。ワレながら、イヤなのね。これ。卑怯な感じがして。もともと短気で熱血型だからさ、そーゆーの、わざとやるの、我ながらウザくてたまんないのね。

 ほんとは、ギャグまじりのやつは、どっちかっつーと、いわゆる「ジェットコースター型」というか、話がはじまったら、じわじわじわじわじわじわあがったかと思うといきなり急転直下事件が起こって、その勢いでドーンといって、あがったりさがったりループを描いたりしてきゃーきゃーいいながら、とにかくどんどん進んで進んでテンションあがって、……はい、ゴール……みたいなほうがすきなのね。

 そして……ザンネンなことに当時の(二十代です)わたしにはまだ、単行本で十冊分必要なほどの大作の構想をたて、それをきっちり十分割して、適宜書いていく、というような技量はまだなかった。ていうか、いまもないと思う。四冊ぐらいがせいぜい。それ以上になると、わたしの脳みそのハードディスクにはいらない。全体が見えないと、着手できない。「一話完結」で、まいどおなじみのキャラがすったもんだする話なら、また別なんですけどね。

 もういっこの……そして、わたしの気持ちにとって最大の問題点は……
 おかみきにウケてくれる読者の大半が、それを未来と朱海くんとの「ラブコメ」だと思ってしまってくれているらしい、ということだったのでした。
 毎回毎回、お手紙でいわれました。
「じれったすぎます」「いつくっつくんですか」「はやく結ばれてほしい」

 は? なに? 

 すみません、わたし、マジ、困惑したんです。

 わたしは「とある特殊な境遇にあった清純といえば聞こえはいいが融通のきかないタマシイが、別の(どちらかというと前よりは普通で一般的な)環境に放り込まれたときに、どのような摩擦をうけ、どのように苦しみ、そうしてどのように自己変革して適応していくか」という物語を描いているつもりだったのです。
 いやそんな壮大なテーマをそーゆーカタクルシイ文章で意識してたってわけじゃないんですけどね。

 別のいいかたをすると、転校生人生を送りまくってきた一匹オオカミのわたしは(いやもっとすごい転校生やってきたひとはいっぱいおられると思いますよ、旅役者の一座のお子さまとかね、でも、ともかく)そういうことが皆無である「マジョリティ」に向けて、「一匹オオカミとは何か」について、書きたかったのね。「一匹オオカミ」はこんなキモチでいるんだよ、できたらわかってあげてね、もしよかったらおともだちになってあげてね、って、言いたかったのね。
 でもって、華雅学園(お嬢様学校)と森戸南女学校(ややヤンキーがかってちょっと程度の低めのまぁふつうの学校)というふたつのまったく別々の、両立できない環境を「共に」愛してしまうという感情についても書きたかったの。
 これは、でっかくいうと、宗教問題なんだよ。
 いまそこできみは笑ったかもしれないけども。
 イスラエルとパレスチナのように……アラブ諸国とアメリカのように……世界にはさまざまな「両雄成り立たず」な価値感があふれている。
 お若い読者のきみたちは……まして、生まれた場所でそのまま育って、オムツしてたころから知ってるともだちや親戚やご近所に囲まれて育ってきたきみたちは……そんなこと、ぜんぜんまったくわからないかもしれないけど……
 きみのその「あたりまえ」や「ジョウシキ」や「ふつう」が、通用する範囲っていうのは、地球全体からすると「これっくらい」ちっこいものなんだよ。
 いつか、世の中に出ていくっていうことは……結婚するにしろ、就職するにしろ、あるいはひょっとするとほんのちょっと旅行するにしろ……その「狭い了見」が、どんなにグズグズな土台にたっているものなのかを、見せ付けられることなんだよ。

 そのことに……できれば、実際にキズつく前に、実体験して痛い思いをして消せない傷を受けるまえに……せめて「目」だけでも向けてほしい。
 そんなキモチでわたしは書いてた。
 あのオチャラケで、お笑いで、おバカで、へなちょこな小説を。

 なのに……20万部も買ってくれる読者の(回し読みがさかんだっちゅーから実際の読者はその何倍かになるだろう)いったいどれだけが、そういうところまで、気づいてくれるんだろう。読んでくれているのだろう。彼女たちはよく「わたしは未来にそっくりです」という。「ともだちからオクテすぎるっていわれます」「ドンクサイっていわれます」「わたしにも朱海くんみたいなカッコいい彼がほしいです」「でもまわりの男子には、あんな優しいひと、ぜんぜんいません」

 いるわけねーって。

 だからこそ、ありもしない宝珠流なんつー流派をでっちあげて、香道などというマイナーの極地でこの世ではおよそふつーの役にたたない「しごと」を家業にしている、ただただ伝統と格式だけはやたらにある一家をでっちあげて、その、女姉妹だらけのきょうだいの「総領」という、とんもない境遇を彼に与えたのよ。
 あんなオトコは、そーゆー、特殊な環境からしか生まれないの。
 しかも、ほんの高校生であんな達観した僧侶みたいな性格になんてなるなんて、およそありえないことなの!










(C)青春出版社 1998
『感じる恋愛論』
著 久美沙織

 そもそもわたしは15歳中学三年生かそこらで「カレシ」なんて欲しがるなよと思っていた。デキちゃったらしょうがない。好きになっちゃったらしょうがないよ。でも、なにもわざわざムリして作らなくてもいいべさ。だって「恋」って本質的に地獄なんだよ。自分が般若になることなんだよ。いっちゃったらもどってこれない門をくぐることなんだよ。たった15でもうそこまで覚悟していいほど、満足にまっとーな世の中を生きてみたのかいあんたらは?
 ……このへんの理屈に疑問を感じられるかたは、わたしの『感じる恋愛論』を読んでほしいです。わたしは「恋」と「愛」と「おつきあい」を全然別物として区別し、世の中の大半には「ソントクづくのおつきあい」しか存在しないと断定しています。きっと反論したいひともいると思うけど、だってそう見えるんだもん。

 で……
 読者にウケたい、ウケたいにはウケたい、でも読者にウケるものは本来わたしが書きたいものとビミョーに違うんだ! このストレスが、わたしをして、おかみきを一冊書くたびに多大なストレスを与えたので、その「毒」をぬくために(抜かないとおかみき本編が恐ろしい展開になります)別のものをかかずにいられなかった、と。そーゆーことなんですね。

 しかし……
 まぁ時代はアッという間に変遷し、いまや中学生が援助と称して売春まがいの行為をすることがたいして奇妙でもない世の中になっちまったんですから、わたしの「ブキヨウ」や「純情」は嘲笑われてもしかたありますまい。
 読者のあまりの要望に、さすがにわたしも覚悟をきめました。そんなにやらせたいならやらせてやろうホトトギス。しかしそれまで「こうだ」ときめて書いてきたキャラの性格をいきなり一変させるこたぁできませんからね。それにはそれだけの作戦をたて、こうなってこうなったらさすがの未来も、さすがの朱海くんも、やってもしょうがないだろう。そういうふうにもってって、書きましたよ。そしたら……旧バージョンの6巻が出たあとの「失望」の叫びに、わたしはマジうちのめされました。なににどう失望したのかは、ここではもう説明もしたくないです。その顛末は、平成版6巻のあとがきでるるグチッてるんで、なんならそちらをお読みください。
 ちなみにそれをお読みくださった平成のティーンのみなさんのうち何名かは「なんでアレで失望するのかわからない」「あんなうつくしいシーンは読んだことがない」「感動で泣きました」などなど励ましのおたよりをくださったりなんかした。で、「ああ、やっぱり時代はかわったんだなぁ」と思ったりなんかもした。でもさ。めるちゃんバージョンの部数と、平成版の部数って、10ウン倍違うわけ。ってことはだよ、そもそも、いまどき、平成版「おかみき」を読んでくれる層って、すでにそーとーにマイナーなのだということなのではないかという気もする。

 小説はウソで架空で虚構だと、わたしはいつも自分に言い聞かせるけれども、だから夢をみたがる読者が読むのであって、過酷なゲンジツなんて読みたくない、読みたい夢だけ見せてくれればいいのだといわれると「それはちゃう!」と思う。夢だから、美しくあるべきだ。それはいい。でも、夢だからこそ、凛々しくありたい。くだらねーどーでもいいもんじゃなく、ありえないほど素晴らしいものにしたい。そう思うわたしはバカですか?

 わたしは未来も朱海くんもダイスキだった。だから、彼らに、容易な軽い恋愛なんてさせたくなかった。一度「このひと」ときめたら、一生貫き通すような、そんな恋愛ができる「人格」が形成されるまでいわゆる男女のおつきあいを「つきあわせ」たくすらなかったのだ。ふたりともまだ若くて未完成だったから、ほんとうの「愛」に到達できるまでには、まだまだ時間がかかる、それを「待つ」だけの辛抱強さが、彼らにはあるはずだ、それだけの「相手への配慮」があるはずだ、そう思っていた。
 ちょっとキスして、抱き合って、飽きたら二週間で別れましょう、みたいな、そんなキャラたちにはしたくなかった。


『鏡の中のれもん』
著 久美沙織

 でも……どうやら、コバルトで「ウケ」る小説としては、そーゆーのって、もう「ふるい」んだな。
 6巻への「罵倒の嵐」事件でわたしは確信し、別の居場所を模索したいと考えはじめた。のわりに、高校篇を書いたりしたのは「気づいてくれ! 気づいてくれ!」という祈りだったと思ってほしい。通じなかったけど。
 その次に、未来とは正反対みたいなグレた(それでいてぜったいにプライドを捨てない)ヒロインを描いた『鏡の中のれもん』のころから、わたしはじぶんが「いまのコバルトの王道」にはもう居場所がないことを確信していた。出ていこう。でもどこに?








花井愛子
講談社X文庫を中心に著書多数。代表作『山田ババアに花束を』は映画化、ミュージカル化されている。その他、大人向けの小説、エッセイも多く手がける。

 その頃、人気のトップをとっておられたかたがたは、既に、既婚者で、お子さまもおられて、マンガ原作者などの経験をたっぷり積んでこられたかたがただった。「売れる」原稿を書く力をもってるひとたち、編集部の要望に答え、読者の要求に答えることが、たぶん「苦」ではないかたがただったのだと思う。
 別会社だが、花井愛子さんがいつかアンケートに答えておられるのを読んでガクゼンとしたことがある。「自分の書きたいことなんて別にないわ。読者が読みがることを書くだけ」
 そうか……そんなことができるひとがいるのか!
 そんなひとには、ぜったいに勝てない、とわたしは思った。

 この世界では。
 この読者では。
 わたしはもう受け入れられない。わたしにはもう居場所がない……。

 氷室さんと新井さんと正本ノンちゃんと田中雅美ちゃんとわたしが、コバルト四人娘(笑うな!)といわれたときがある。みんなして、ヘアメイクさんにきれいにしてもらって、レンタルのウェディングドレスとか、スポーツウエアとかを着てポスターになったりした。
 ある日、ふと気がついたのだが、この四人の誰ひとり、こどもを生んでいない。
 現在にいたるまで。
 隠し子があったら知らないけど。
 みんなもうけっこうトシだから、マルコーだから、たぶん、養子縁組でもしないかぎり、コドモは生まれずに終わるだろう。

 一代雑種、という生物学用語が思い浮かぶ。
 こいつらはガンジョーでよく作物を実らせたりするが「増えない」のだ。
 こどもがつくれない。ヘタすると「品種改良」?で、わざと、ぜったいにタネにならないように遺伝子を改変されている。するってーと、「この作物がほしいひと」は自分で増やすことはできないから、また「発売元」から購入しなきゃならないのである。

♪ おお、パイオニア! われらパイオニア!

 開拓者には開拓者の資質。すでに「十分に成熟した市場」にはすでに十分に成熟した市場に適した才能がある。開拓に向いた才能は、あまりに成熟した市場には、もしかすると、たぶん、あまり適さないのではないだろうか? 
 巨木の森を考えてもいい。巨木の森の中はかなり暗い。光を必要とする種類の若木は、巨木の陰になって一日じゅう日のあたらない地面では、けっして生き伸びることがでのない。巨木の根元にはコケやキノコが生え、たまに小さな花は咲くかもしれない。コバルトは最初、里山の雑木林だった。そこには、多種多様な樹木潅木草木のたぐいが生存できた。わたしたちはそこで、いろいろな花を咲かせ、実を成らせた。
 いまは、スマン、実はよう知らんのだが、なんだかとてもぶっとい樹が……それも互いに似たような種類のそれが……いずれもお互いより少しでも高くまで伸びようと、どこまでもそびえた森になってしまったようにわたしには見える。その森には、ちっちゃな雑木のはいりこむスキマはない。たとえタネがとんでいって根付いて芽をだしても、やがて巨木の影のあまりの大きさに、枯れてしまうだろう。とはいえ森の縁の、わずかにでも光のあたるところには、可能性があるにちがいない。巨木が一本倒れれば、そこに光がさし、腐葉土ができ、また新しい生命が生まれるだろう。

 別の言い方もできる。
 マラソン競技で世界記録を出そうなんてー時には、ペースメイカーと呼ばれる選手が、ふつーの選手にまじって、かならず「トップグループ」にまじって、時計をみながら走ったりするものだ。たまにそのペースメイカーのはずのひとが優勝しちゃったりすることもあるけど、30キロあたりで、走るのをやめたりすることもある。
 わたしは30キロで「あのコース」を走るのをやめたランナーだ。
 あのコースでゴールのテープを切るのは「自分にはムリだ」と悟ったランナーだった。

 そーいえば……
(ババアの回想のいったりきたりをまた許していただきたいのだが)
 われら「初代コバルトブーム」組の「特徴」で、思い出したことがある。
 いつだったか、「キラキラ文章ゼミナール」とかなんとかいう企画があり、コバルト編集部に応募して選ばれた読者のかたがた何名かをお呼びして、あっちこっちにでかけていってなんだかんだやったことがある。講演会っつーか、パネルディスカッションっていうか、まぁそんなようなもので。わしら四名が、たまさか揃ったのはたしか「新潟」のなんとかいうハイカラなホテルの一室だったような気がするんだが。

 会場でですね、質問をされるわけですね。同じ質問に、四人がそれぞれ答えるんですね。マイクをまわして。
 たとえば「小説を書いていて一番嬉しいのはどんな時ですか?」とかって質問があったような気がする。
 以下、ちなみにウロオボエですから、もしかすると、誰かと誰かのいったことを混同してるかもしれませんが、少なくとも自分が言ったことはニュアンスは違っててもそのとおりです。。

氷室冴子「書いている時そのもの。自分の頭の中に生まれたイメージを、かたちあるものに定着させていくのがキモチいいですね」
田中雅美「書き上げて、ヤッター、これで終わった。間に合ったー! って時」
正本ノン「自分の本を本屋さんで見たとき。はじめて見た時には夢かと思った。あと、読者のかたからおたよりをいただくと、ほんとに嬉しいです」
久美沙織「んー、やっぱ、原稿料とか印税とかが振り込まれたのを銀行で確認したときっすねー」

質問「これまで書いてきた小説の中で一番好きなのはどれですか?」
氷室冴子「いま書いているもの。そしてこの次に書こうとするもの」
田中雅美「自分の書いたのは全部すきー!」
正本ノン「処女作。作家のすべては処女作にあるっていいますけど」
久美沙織「全部だめ。納得いってない。ほんとうのわたしはまだまだこれから」


 ……よろしいか?
 読者のみなさま。
 これらの互いにかなり相反する答えをけっして「ウノミにしてはなりませぬ」(笑)。すべての答えは実は四人共に程度は違いながらも共通するものであり、すべての答えにどこか諧謔とかウソとか演技とか「自己演出」があるわけです。
 それをですね、この四人はなんら事前の打ち合わせなしに(なにしろどんな質問されるかなんて前もって知らなかったし)「役割分担」してのけた。
 誰かがいったのと同じよーなこといったら聞いてるほうもつまんないし、いうほうもクヤシイ。だから、なんとか違いを出したい。別の魅力を出したい。お互いにお互いの違いを際立たせたい。そーゆー意識が、たぶん無意識のうちにすげー強かったんだと思う。この時の瞬間的な受け答えはその典型で、だからわたしも「おお、みんなやるじゃん」と覚えていたわけですが。


(C)ポプラ社
『若草物語』
著 ルイザ・メイ・オルコット
  Louisa May Alcott
→bk1 →ama →楽天

 四人姉妹といえば若草物語(ちなみに原題はLittle Women)。
 むろんわれら四人は四人ともその名作を読み、その映画も見、全員が間違いなく自分を「ジョー(次女。作家志望)」になぞらえて読んだでしょう。
 しかし、ひとまえでは、あるいはマスコミ前では、読者に対しては、無意識のうちにそれぞれを「若草物語」の登場人物になぞらえていたような気がする。

 氷室さんはしっかりものの長女メグ。母親の助けになって家庭(つまりコバルト全体)をきりもりしなければならないと決意していて、そのためにはある程度、自分自身の幸福などは二の次にしてかまわないと覚悟している。やや古風。






ローリーと結ばれるし
若草物語のヒロインは確かにジョーではありますが、ローリーと結ばれるのはエイミーです。そしてローリーはジョーにとっては理想の男性というわけありません。ジョーは、年の離れた教授と回り道の末、本当の愛を育んでいきますので。
(引用:遥様の書込)

すみません、おっしゃるとおりです(涙)
(文責:久美沙織)

 ノンちゃんはジョー。背が高くて男性的で、男勝りで……古風な姉に対抗してリアルな現代的女性への道を模索しているけれど、実のところいちばんロマンチストかもしれない。ちなみに「若草物語」はあきらかに彼女がヒロイン。理想の男性ローリーと結ばれるし。

 おしとやかで天使のように心優しいベス。なにしろ田中のまーちゃんは執筆の合間にピアノを弾いているのかピアノを弾く合間に執筆しているのかわかんないような生活していたようだし(すくなくともそのころは)。虚弱で、優しくて、よその貧しい家の子の看病をしているうちに、チフスだったかなぁ、当時だととてもヤバイ病気にかかって倒れてなくなってしまう。あの70年代にすでに近親相姦小説だの美少年監禁小説だのを書いてたまーちゃんのどこがベスだ! とツッコミがはいりそうだけど、まーちゃんはようするに「この世のひとではない」度が高いのではないかと思う。

 末っ子のエミリーはワガママでジコチューなガキである。かーちゃんやねーちゃんたちの苦労、せんそういってるとーちゃんのことなんか、まだぜんぜんよくわからない。夢見がちに、ただボケーッと生きている。悪くいえば傍若無人、よくいえば天真爛漫。破天荒。

 わたしは、四人が四人そろって対比されるようなときには、すすんでエミリー的な役割を埋めたと思う。ヒトをヒトとも思わぬ物言いをし、ねーちゃんたちの言うことをいちいちチャカすことを楽しんだ。
 映画の中、リズ・テイラー(なんとエミリー役をやっているのは、おっそろしくかわいいまだ十代の彼女なのだ)は、もっとハナが高くなりたい一心でセンタクバサミでハナをつまんで寝る。十分高いハナだと思うのだが、それでもまだもっと高くしたいのだ。センタクバサミ責めは痛そうだからわたしはイヤだが、「もっと高く!」「もっときれいに!」「もっとカッコよく!」じゃないと「わたしじゃない!」というキモチはよくわかる。「じゃないと、わたしはわたしが気持ちよくいられるわたしじゃない!」というあたり……。

 だってローリーはジョーのこと好きなんだし。
 だったらあたしはローリーより、もっとカッコよくて、もっとお金持ちで、もっと親切で……この世のほかの誰より、うちのねーさんたちの誰より、「あたし」を選んでくれるひとをみつけてみせるわ!

 そーいえば、いつだったか、このコバルト初期四人組でヨタ話をしていて、誰はどんな死にかたをするだろうかってハナシになった。
 氷室さんはまちがいなく、憤死。なにかに激怒して、激怒して、激怒するあまり、ある日コメカミの血管がプツッといって死ぬだろう。
 正本ノンちゃんは、たぶんもっとも長生きで老人ホームで一番人気のモテモテで、誕生パーティーかなんか祝ってもらった翌朝、眠るように幸福そうな 顔でいつの間にかやすからに死んでいるのをみつけられて、みんなに次々に手をにぎられて、さようなら、たのしかった、ありがとう、とかっていわれるだろう。
 田中のまーちゃんは美食とワインでフォワグラ死だろう。
 久美はたぶん誰かにいきなり刺されるだろうといわれました。通り魔か、ストーカーか、知人に恨まれてかはともかく、突然ブッスリやられるだろうと(←「ぜったいそーよ、そーにきまってるわ」と嬉々としておっしゃったのは氷室さんです)。

 それじゃ
「なんじゃこりゃあーーー!」
 って言わなきゃだめかしらやっぱり……。

なんの話だっけ?
ああ、そうそう。

 そんな時、たまさか偶然にももたらされたのが『MOTHER』ノベライズへの誘いであり、それがひいては、日本ゲーム界の金字塔(だよね)であるところのドラゴンクエスト・シリーズの「伝記作家」という、こんな名誉なことほかにありますか、な方面への道を拓いてくれたりしたのだ。

 忘れないうちにもいっこいっとく。




『ありがちのラブソング』
著 久美沙織

 日本で最初に、パソコン通信と「ネット仲間」をストーリーの中心にどっかりと据えたエンタメ小説を書いたのはたぶんわたしだと思う。『ありがちのラブソング』88−V、初版昭和62年つまり1987年の4月だ。表紙イラストおよび挿絵は藤原カムイ。あらすじ。とあるチャット場で人気の架空の電子人格アイドル(当時のことだからほぼテキストのみの存在)が、謎の「誘拐犯」に拉致られた。そこで、その頃には既になくなってしまってたジミーな草の根ネットを過去に形成していた名うてのハッカー(日本におけるオンライン通信の初期使用者)たちが、ひとりひとり探し出され、再集結して事件解決をはかるのである。「敵」の正体があまりにショボくて、ミステリーとしてのデキは最悪だが、少なくとも「なにしろそーゆー世界がある」ってことをちゃんと書いた「いっとーさいしょ」である。そのことだけはジマンしてもいいと思う。

 しかし……いまから17年も前に、こんなもん書いて(しかもコバルトで!)ウケるわけない。よって、まったくなんら評価されなかった。チャットとか、ハッキングとかいうことばすら「難解」だったのだから。モデルになったのは、無料でテスト運用してくれていたアスキーのBBSで、「電子無能」と呼ばれる「架空存在」もまたその当時すでに実在していた。アメリカのなんだっけ、精神分析医ソフト、ラプターだかなんだか、なんかそんなもんのパクリみたいなもんを誰かが(すげぇやつが)作っていたずらにチャット場にほうりこんだのだ。最初はみんなそれがネカマどころか「まったく架空の、いわば電子的九官鳥のようなもの」であることに気づかなかったりした。そらもう、SFがまさにいまゲンジツになりつつある現場みたいだった。んーな事情を知ってるひとはそりゃーすくなかった。なにしろ家にパソコンのある人口そのものがいまとはケタが違ったからなぁ。


高橋源一郎
作家。「さようならギャングたち」「ジョン・レノン対火星人」「ぼくがしまうま語をしゃべった頃」などがある。



シニフィアンとシニフィエ
言語学の用語。言葉を構成する要素のうちシニフィアンが「音」、シニフィエが「意味」といったところ。能記と所記、記号表現と記号内容ともいう。

 高橋源一郎(灘校もと生徒会長)がわたしの書いたもの(どの時点のだったかはわすれた)を評して、シニフィアンとシニフィエが遊離している……とゆうてくれたことがあり、哲学科卒の威信にかけてあわててラカンだのドゥールスだのガタリだの「の初級入門書」(だってホンモノは難しすぎるんだもん)を読んでみて、それでも、ホメられてるのかケナされているのか結局のところまったく判断できなかったりしたことがあるのだが、遊離していたのは、むしろ、読者および編集部がコバルトで人気を得ている作家に当然のこととして要求するものと、わたしが「やってみたいこと」「だってこれカッコいいじゃん? と思うこと」だったような気がする。

 たとえば……わたしは「男女のどーのこーの」がニガテらしい。
 一般的にいってフツーな意味での興味は、ほとんどないらしい。
 誕生日だのクリスマスだのバレンタインだのにどこをどうドライブしてどこでどんなメシをくってどんなエッチをしてどんなプレゼントをもらったら「嬉しい」、みたいな「カタログ」的なものに対する欲求感覚が、わたしにはスコンと欠如している。

 あるとき、ある雑誌に「オトナの男女の関係についての小説をひとつ」といわれて、ハイハイといって書き上げた。編集部から電話がかかってきた。「あのね……濡れ場がないんだけど」「はい?」「オトナな関係っていったら、そのことに決まってるでしょう!」……そ、そ、そうだったのか。わたしは「真に人間的にいっぱしのオトナな人格をもって対等にわたりあえる男女の友情と対立」みたいなものがたりを書いてしまった。以来、中間小説誌に、居場所がなくなったのはいうまでもない。

「ラブホテル」
ホテトル嬢とタクシーの運転手の愛を描く。脚本は「ルージュ」の石井隆、監督は「魚影の群れ」の相米慎二、撮影は篠田昇がそれぞれ担当。
→ama



 いやエッチを否定するわけじゃないですよ。わたしの20代の最愛読書は『O嬢の物語』だったし。あまたなメディアがスケベな気分をもりあげるために存在する……というか、ほとんどの場合「それ」で発展するということもよく理解はしているつもりだ。けど……あのさぁ……こんなとこでこんなこといっていいのかどうかわかんないけど……エッチって「ダサく」ない? おとことおんながはだかになってすったもんだするなんていうのは、どこか物悲しいか、滑稽か、ただただ暴力的で破滅的か、それらの混合か、ま、どれかじゃないですか。
 そのダサさや物悲しさや滑稽さをとことんつきつめていくことができれば、「人間」を描ききった「泣ける」名作になったりもするわけで、たとえば、映像作品ですが相米慎二監督の『ラブホテル』(石井隆脚本、だから当然ヒロインの名は「名美」)なんつーのは、もう、すすりなき→号泣ものです。なにしろ主人公の寺田農さまは「自分のちっこい出版社をつぶしちゃったオヤジ」。ひとりで死ぬのがイヤさにホテトル嬢呼んで、……ああうう。そう、「おとなの恋愛」というのはこーゆーのをいうんですね、きっと。
 こーゆー「エッチ」ならいつか書いてみたい! けど……そう簡単じゃない。

 そーだ。いつかわたしノンちゃんとナニカのハナシをしていて「だって感情ってもんは、ようするに脳の中で化学物質の割合が変化することじゃん」といって絶句されたことがある。「……くみくんは……なのに小説かいてるの?」「そうだけど?」悲しみも喜びも苦しみも痛みも、わたしには「つきつめればどの範囲のニューロンをどう刺激するか」の問題に思えてしまうらしい。
 まして「スケベなもりあがり」は単純だ。ホルモンの暴走以外のなにものでもない。でっかい乳したねーちゃんが濡れたシャツでクチビルをはんびらきにしていればそりゃイヤラシイ雰囲気がする、正常な機能をもった男性ならばそーゆーものを見ると勃起反応が起こるだろう。たてば出したくなる。それは生物の必然だ。この反応には知性はほとんどいらん。

 赤坂なんとかホテルで、シルクのレースのシュミーズをぬがしたら、ヴヴクリコ(ちなみにこの有名なシャンパンはクリコ未亡人という意味なので結婚式とか結婚記念日とかには余りださないほうがいいと思う。いや、死を賭してのSMをやってカマキリ夫人に殺されれば本望だっつーような場合ならばぴったりだが)を飲んでほてって吸い付くようになった彼女の肌がどーのこーの……みたいな「詳しい描写」を読んでも「へー」と思うだけで、「いーなー」とか「いちどやってみたいなー」とか「ウチの彼にもこれ読ませよっと」とかと思うようなことは、すまんが、まったくない。


『小説ドラゴンクエストV 天空の花嫁』
著 久美沙織
→bk1 →ama →楽天

 じゃあ、どういうのだと描き甲斐があるのか、書きながら自分もおうおうと萌えてしまうかというと……『小説ドラクエ5』読んでください。腐った死体のスミスのビアンカに対する感情、あれがわたしが「愛」と思うものだ。ガンドフが双子の赤ん坊に対してやったこと、あれも。
 そーゆー「愛」にしか「きゅん」とこないヤツにとっては、ただの不倫とか、ヘンタイ的なセックスとかには、すまん、正直、あんまし興味も熱意ももてないのである。

 ついでにいうと、そもそもふつーの組織集団内だの人間関係のなんだかんだもダメなのだ。
 なにしろ学生→小説家で社会に出たことがないとは前にもいった。OLさんをやった経験は一度もない。原宿竹下通りのアクセ売り場で売り子さんをやっていたことはちょっとだけあるけど、そこの経営者は遠い親戚だったし、あまりにも小さな職場で、たぶんフツーにいうところの「会社」組織の「したっぱ」としての自分を理解するところまではいたらなかった。


『ファインマンさん最後の授業』
著 レナード・ムロディナウ
訳 安平文子
→bk1 →ama →楽天

 よーするにわたしは「ふつーいっぱんのおとな」とか「ふつーいっぱんのコバルト読者」が一番興味を持ちそうなことに、どーやら、あんまり興味がない、へんなやつなのだ。
 ちなみにいま『ファインマンさん最後の授業』を読んでるんだけども、すっっっごいおもしろい。カルテク級の科学者のみなさんの中にすら、「俗っぽいひと」と「そーでないひと」がいて、ファインマンさんなんつーのは「そーでない」最北端なわけで、そのファインマンさんの最後(ガンで死期が近いことは本人も周囲も知っていた)の日々を見つめ続けた若い科学者のことばのひとつひとつが、実におもしろい。素晴らしい。わたしには無限多元空間だのクォークのふるまいだのはぜんぜんわからん。しかし、そーゆーものをつきつめて考えることに人生賭けずにいられないひとのキモチはよーわかる。それはわたしが、「ドラゴンにはなんで翼があるんだろう? 航空力学的にはどう考えてもあれで飛ぶのはムリなのに……」と思いついてしまって、結局は「魔法」にたよらざるを得ないのだけれども、それにしてもたんなるなんでもありの魔法ではなく、いちおう「ルール」をつくって整合性をもたせる「魔法世界」をまるごと作らずにいられなかったのと、たぶん、なにかが「同じ」ことなのだと思う。脳みその中で「何をするのが」楽しいかに関して。ぜんぜんジャンルは違うけれども。


『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』
著 竹熊健太郎
→bk1 →ama →楽天

 ちょっと遅れて読んだ今年の週刊朝日の3月12日号に『マンガ原稿料が安いワケ』というたいへん興味深い記事があった。竹熊健太郎さんの『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』イーストプレス刊 に関するみひらき2ページの短い記事であるが、その中に『マンガ産業論』(筑摩書房から7月刊行予定だそうだ)を執筆中の中野さんというひとの発言が紹介されている。
「わたしの甥が小学5年のころ『マンガはストーリーが複雑で情報もごちゃごちゃしていて面倒だ』と言った。それで中学に入った今もマンガを読んでいません」

 おかみき最盛期、わたしが読者からうけとったレターとそっくりである。
「最近のマンガはなんだかすごく難しくって、とってもついてけないけど、コバルトはわかりやすくて、バカなわたしでも楽しく読めるから好きデース♪」

 ということなのである。
 水は低いほうに流れる。
 カネは需要がたくさんあるほうに流れる。
 よって、業界は「成熟」するとかならず「てっとりばやく成功する道」を肯定するようになる。「いまウケてるものにできるだけ似ていて、ほんのすこしだけ新鮮なもの」を求めるようになる。

 フツーな感覚の「おもしろさ」や多くの読者に「ウケるもの」にいまいち関心がもてず、しかも、自分なりの「カッコよさ(美学といってもいい)」にものすごい愛着があり、かといってプロなんだからそれで食ってけないと困るわたしの、あしたはどっちだ?

 ゲーム業界だった。

 『MOTHER』が、続けて、ドラゴンクエストのシリーズが、まったく別の道を拓いてくれたのだった。
 なにしろゲームのノベライズの読者は元のゲームは十中八九クリア済みだ。つまりストーリーもキャラも「既に知っている」。だから、そんなもんをただなぞることには意味はない。重要なのは「あらすじ」ではないし、セリフでもない。
 描写だ。
 ここに、わたしの、わたしが信じる、わたしが伝えたい「カッコよさ」を発揮する余地があった!
 わたしはたまさかの偶然で本来自然にはできるはずのない形態に生まれ落ちてしまって子孫を残す可能性のないミュータント(レオポンとか、ライガーとか)かもしれないが、読者は作れる。
 ゲーム読者は若い。
 このわたしが感じる「カッコよさ」を「すげぇ! カッケー!」と言ってくれるような読者を作りたい、増やしたい!
 「かっこよさ」とは、データではなく、カタログ的ブランド的な「権威」でも「流行」ではなく、あくまでなんらかのものごとを切り取る特別の角度であり、何かを語る場合の語り手を設定する選択眼であり、見つめる視線の置き場であり、エピソードを選択する判断力であり……そしてなにより、「知性」だ。
 ホルモンで感じるものではなく、自動反応する感情ではなく、前頭葉を経て、「これまでのなりゆき」を知っているからこそ、「わかる」その一瞬の刹那の重さ。
 それを、ことばで、ただことばの力だけで、この世に本来はなかったものを、再現すること。
 はっきりと味わわせること。
 もし、ゲームをプレイした時、自分が勇者として戦ったときに、いやおうなく感じた「恐怖」や強い敵を倒したときの「満足感」に勝るものを、脳みその中で強烈に再体験させることができるなら。

 こんどこそ、「読んでほしい読者」に「読んでほしい読み方」で読んでもらえるようなものが書けるかもしれない。
 それがわたしの、いたってワガママで(しかも生活費をかせがなければならないという功利的な側面もしっかりと持った)動機だった。
 自分に、「もうコバルト作家でいることはできないんだ」と、言い聞かせるときの。


原稿受取日 2004.4.3
公開日 2004.5.14

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