創 世 記
第1回  「コバルト以前!」


 どーもー、久美沙織です。

 今回は、有史以前? のデキゴトについて、わたくしめの知っているコトガラについて、ちょびっと述べてみたいと思います。もしかして勘違いとか間違って覚えてることとかあったら、教えていただければ訂正します。バカ扱いしてイジメずに、あくまであたたかい目で見守っていただけるとありがたいです。

 さて。
 ライトノベル、ヤングアダルト、ジュニア小説、少女小説、ジュブナイル、その他その他、「そのへん」を表すにもいろんな名前があり、ジャンル分けがあり、どこにもあてはまらないものがあり、まー、ようするに定義とかちゃんとした研究とか、いまのところ皆無なわけですが、とりあえず、「そのへん」の共通のルーツをさがすとしたら、たぶんここになるでしょう。


(C)朝日新聞社

(C)朝日新聞社
ゆめはるか吉屋信子〈上〉
秋灯(あきともし)机の上の幾山河

著 田辺聖子
朝日文庫 (2002/04)
ISBN 4022642904
→bk1 →ama →楽天
ゆめはるか吉屋信子〈下〉
秋灯(あきともし)机の上の幾山河

著 田辺聖子
朝日文庫 (2002/04)
ISBN 4022642912
→bk1 →ama →楽天

 いや田辺聖子先生ではなくて(笑)吉屋信子先生のほうです。現代のワカモノには、原点より、とりあえず、この評伝というか、伝記というかが、オススメだと思います。いったいどういう時代にどんな作家がどんなことをやってきたのか、おセイさんの清純にして透徹した思考力で、追体験させてくれますから。勉強になりますよ。


(C)東方社
『良人の貞操』
著 吉屋信子
東方社 (1966)
→bk1 →ama →楽天



『女人平家』
著 吉屋信子
朝日新聞社 (1971)



『徳川の夫人たち』
著 吉屋信子
朝日新聞社 (1974)
→bk1 →ama →楽天



『花物語』
著 吉屋信子
洛陽堂 (1920)
→bk1 →ama →楽天

 晩年は、新聞小説『良人おっとの貞操』、時代小説『女人平家』『徳川の夫人たち』などなど、いわゆる一般大衆文学のジャンルに当てはまるものをお書きになられた吉屋信子先生ですが、彼女をウルトラ大人気作家にしたのは、『花物語』シリーズです。ご本人が実際どうだったのかについてはビミョーな話で、正直わたくしめなどにはわかりませんが、これは「若い少女が、他の少女を(身体的にも含めて)愛するさま」をいろいろな花にたとえて書いた短編集でした。ぶっちゃけ、高らかな「レズ宣言」です。
 わたくしたちは女性であることを誇らしく思いますわ! 男なんてガサツで失礼で醜いイキモノは、わたしたちの人生にはいらなくってよ! 夢のように美しいものだけを愛して、純潔に生きていくのよ、ヒロミ!(←?) ってな感じ。

 ちなみに、『良人の貞操』という小説はそのタイトルですでに物議をかもしました。亭主に貞操を求めるなんて考えは、それ以前の妻にはなかった。あっても言っちゃいけなかった。男は好きなだけあっちでもこっちでもコダネをばらまくのがあたりまえで、きっちり貞操をもたねばならぬのは女のみ、って考えられてたんですね。まーいってみれば、生物としてのオス性がよりモロだったというか(古代とかになるとまた全然別なんですけど、とりあえず)。

 「まことより嘘が愉しや春灯はるともし」……わたしのとても好きな信子の俳句のひとつです。
 ええやろ(笑)
 ようするにコレですわ。
 まことより嘘。
 ゲンジツなんてどーでもいいわ。きれいな夢をみせて!
 わたしは夢の中で生きていくの。
 そういうこと。


 このへんのさらにルーツには、世阿弥の「一期は夢よ、ただ狂へ」がある……そもそも、日本人は西洋人にくらべるとネオテニー(幼児的特性を保つこと)的であり、男女の体格差も少なく(ハクジンなんてあーた、男はシュワちゃんで女はボインで)、やれお稚児さんシュミだの、歌舞伎・宝塚などなど芸能における性差の混沌などなどがある……なんていいだすと、話がぜんぜん進まないので、ま、そーゆーことは、一応アタマの片隅においといていただいて、先にすすみます。

 えー、ゲンジツには、「三界に家なし」とかなんとか言われ、ろくに教育も与えてもらえず、セックスつきの家事奴隷みたいな生き方をさせられるのがあたりまえだったころの女性、というか、まだうら若いオトメのみなさんに、信子の「ロマン」は、希望そのものだったのです。
 「そうよ、そうよ、わたしもそういうふうに生きたいわ!」若い娘が軒並みこんなことを言ったり思っちゃったりし出したもんだから、親と男衆はあわてました。なにしろそれまで牛馬同然と思っていた女子どもが、いきなり激しく「自我」を発揮したので。


『少女の友』
明治41年(1908)創刊。昭和30年(1955)の終刊までの47年間、おもに女学生に人気を博す。執筆者には与謝野晶子、川端康成、吉川英治、阿部静枝、田村泰二郎、山中峯太郎などもいた。
画像提供:書肆風狂

 昭和三年にお生まれになられた田辺聖子先生はリアルタイムで雑誌「少女の友」(なんとあの実業之日本社。ちなみに当時は貸本)に「間に合った」世代だ、と、上記の本で、おっしゃっておられます。お若い方々、わかります? これは、あの太平洋戦争つまり第二次世界大戦の真っ最中です。戦況はどんどん悪くなり、女子はモンペで防空ズキンで、先生がたは国民服でゲートルで、なにかというと暴力で倹約で「ホシガリマセンカツマデハ」な時代。そこにこれですから。
 そりゃあ、ピュアな少女たちと、こころが少女であるひとたちは、みんなしてハマりますわなぁ。

 でもって話がちょっと相前後しますが、「少女小説」という言い方は、吉屋信子先生がはじめておっしゃったようで、これを「継承しよう」と提言なさったのが、コバルト初期時代の、氷室冴子せんせいでした。


(C)集英社
『マリア様がみてる』
著 今野緒雪
コバルト文庫 (1998/04)
2004年4月現在最新刊の「マリア様がみてる チャオ ソレッラ!」→bk1 →ama →楽天で17冊目になる人気シリーズ。

 そもそも、「少女」とか「少年」とかいうものそのものが、あくまで近代の産物であり、義務教育でほぼ国民全部が「学校」にいくようになるまでは存在しなかった、というふうに理解してください。
 江戸時代の女子は、「こども」→「女童」→「娘」→「年増」です。
 ではなぜみんなが学校にいくようになったかというと、男子が先行したわけですが、これはもう間違いなく「良い兵隊さんになるため」です。ヨミカキ・ソロバンの寺子屋は江戸時代とかそれ以前にも(たとえば僧侶系とか)あったわけですが、国民皆兵制度で、まっとーに戦える軍隊にするためには、どーしても一般庶民をそれなりのレベルまで教育しなきゃならなかったんですね。
 で、女子のほうはというと、最初はもちろん、「家政」に関して、よりプロフェッショナルな訓練をほどこし、イザというときにはキモノの仕立てなどの「内 職」をして、兵隊であるところの夫の内助を支えることぐらいしか考えられなかった。
 そこに、戦後ドッと、占領軍とその文化がはいってきて、ミッション(役割という意味。ようするに布教のこと)系の教育者のひとたちもじゃんじゃんやってきた。戦争孤児などなどを保護すると共に、新教(アメリカさんはほとんどプロテスタント)的、勤勉・清貧・貞操観念を植えつけようとした。これにマジになったひともまぁ少なくなかったでしょうが、むしろ、十字架、教会、マリア像などの「もの」の新鮮な美しさや、「病める時も富める時も」とか「殉教」みたいな観念にに「萌え」ちゃうひともあったんじゃないかなとわたしなんかは思いますです。昨今の「まりみて」(マリア様がみてる・コバルト文庫)のヒットなんつーのは、いってみれば、こっからのどストレートなナガレなのかも。
 いやもちろん、明治維新よりはるかに前から、出島にはカピタンとかきてたわけで、お大名さまなのに隠れキリシタンなひととかいたり、はるか東北地方にまで「隠し念仏」といって、マリア観音があったりしますが、あくまで、マイナーなシュミだったわけですね。

 何の話だっけ?

 あ、そうそう。
 で、吉屋信子先生の御作品は、婦女子の圧倒的支持を得、売れに売れたのですが、父権主義社会にきっぱり反旗を翻してるんで、「読んじゃいけない、読ませちゃいけない」もの、あるいは、「夢みる夢子さんのローティーン時代ならともかく、初潮もきて、ちゃんと結婚できるようなトシゴロになったら卒業しなきゃならないもの」みたいに言われた。
 「(まともなオトナなら相手にしない)オンナコドモのもの」ってやつですね。
 文学の大家のかたがたも、信子の「文学性」や「芸術性」を、ナメてたというか、すなおに評価なんかできなかった。
 なにしろすこぶる儲かったので、信子は、養女(ていうか、たぶん同性愛のパートナー。そういう相手と結婚する制度がないので養子縁組するのはなんと現代でも同じ)の千代さんをつれて、ヨーロッパ旅行とかしちゃってます。
 そんなこと一生できっこない甲斐性なしの男たち、ことに作家とか男マスコミ人とかのひがむまいことか!
 やれ、信子はオカメの激ブスだ、だの、あんなヤツじゃヨメの貰い手なんてどーせないよだのと、さんざん言われたみたいです。

 でもって。

 いきなり話があいまいになりますが、アタるところ二匹目のドジョウを狙うやつが出現するのはいつの時代の出版界でも同じことで、「少女の友」のパクリというか、そっくりさんが、つぎつぎに雨後の筍します。


(C)小学館
『女学生の友』
小学館から昭和25年(1950)に創刊された月刊誌。女子中高生向けのライフスタイル提案を主とした雑誌(らしい)。昭和45年12月から誌名を『Jotomo』と改める。昭和49年(1974)終刊。
画像提供:女学生の友の世界




(C)集英社
『小説ジュニア』
集英社から昭和41年(1966)に創刊された月刊誌。昭和57年(1982)に誌名を『Cobalt』に改め、現在に至る。




(C)秋田書店
『幻魔大戦』
画:石森章太郎
原作:平井和正
1968年刊行。『週刊少年マガジン』に連載された漫画。過去・現在・未来を通じて宇宙全域の暗黒化を企てる幻魔と人類の攻防が描かれた。小説、アニメ等などにジャンルミックスされている。



「この表記は当時」
石ノ森章太郎は、もともと「石森」と表記して「いしのもり」と読ませるはずだったが、「いしもり」が定着してしまったため、後に「石ノ森」に改名した。

 こっから、わたし(1959年生まれ)の実際の記憶になるんですが、わたしが小学生のころには「ジョトモ」と呼ばれるレトロな雑誌がまだ生き延びていました。フルネームは「女学生の友」だと思います。
 ジョガクセイ、なんつー単語は、昭和30年代生まれのわたしにとってもすでに「うわ、なにそれ、ふるー!」で、すみません、実際には、ただの一冊も読んだことありません。とにかく「良い子は読んではいけない本」なんだなと認識していました。なんか、エッチな記事(いまの感覚でいうたらなんのことないと思うんですが)が多かったらしい。

 で「小説ジュニア」もまた、そういうひとつだったのです。

 わたしが小説ジュニアをこっそり(親にかくれて)購読しはじめたのはおそらく小学五年生ぐらい。毎月かかさず買うようになったのは六年生になってからですね。はっきり記憶しているのは、『幻魔大戦』の秋田書店のSUNDAY COMICS一巻を、表紙の絵柄と「SF」というなんだかよくわからないアヤシイ文字に惹かれてこっそり買って帰って読み、感激のあまり、ナイショだよ、と四つ下の弟(現在眼科医)にみせたら、バカ弟めが両親にチクりやがって、「マンガなんて買っちゃいけません! それより、親に隠しごとをしたりするのはもっといけません!」とこっぴどく叱られたのが、盛岡市天神町の家だった、ということです。
 ウチは親父のしごとの都合でしょっちゅうヒッコシをしていたので、場所を思い出すと、時代もわかる。いまとなっては便利。

 ここでわたしは反省するどころか、より巧妙に、親にみつかってヤバそうなものは、しっかり隠して読み、弟にすらぜったいに見せない! という姿勢になった。だって、あんなにおもしろい『げんま』のどこがいけないのか、ぜんぜんわかんなかったんだもん。
(ちなみに、実はその当時の『幻魔大戦』はいまでは手にいれるのが超困難です。黒人少年キャラの扱い・セリフまわしなどが問題になり、改変されてキバを抜かれたみたいになったバージョンしか存在せず、どーも文庫化もちょっとありえないみたいです。原作の平井和正先生と、作画担当の石森章太郎先生←この表記は当時……の間に、どうもなにかあったらしい、みたいな話もチラッと聞こえたことがありますが)
 閑話休題。
 このときから、親がイヤがりそうなもの(で、こどものお小遣いでも買えるもの)を嗅ぎ付けると、わざと好んでまずそれを読むようになった、ともいえます。

 で、毎月隠れてセッセと読んでた『小説ジュニア』ですが……おもしろかったですよ。そりゃー。なにせ禁断の世界なんですから。でも、ちょっと読みなれてくるとだんだん「???」になってきた。
 そこに描かれている、高校生の会話とか、生活感覚とかが、どーもヘン。
 はっきりいうと「古い」。
 ぜんぜんピンとこない。
 のちに気づくのですが、当時、『小説ジュニア』を執筆あそばしておられたのは、かなりご年配の先生がたばっかり、ほぼ、それ「のみ」だったのです。

 あっちこっちで語ってますから、いまさらのかたも多いかもしれませんが、好きな逸話だし、「歴史」の一ページとして、欠かせないものだと思うので、ひとつ。


(C)集英社
『白百合の祈り』
著 諸星澄子
集英社 (1968)

 諸星澄子先生『白百合の祈り』昭和52年1月10日刊行。
 カバー裏の紹介全文は以下のとおり。

「杉森重秋が山で昆虫採集をした帰り道、自転車にのったまま倒れた中根さゆりを助けおこした。ふたりは同級生だったが、中学にはいってから、別々の学校に通うようになった。高校生の今、久しぶりの再会だった。そしてふたりはひそかにデートを重ねた。だが、ふたりの心は重かった。というのは、農地改革で杉森家の田畑が中根家へ移ったため、両家の仲が非常に悪かったからだった。」

 農地改革!?
 当時高校生だったわたしは、その単語を、歴史の教科書でしか知りませんでした。まさか、それが「いまでも」オノレにとって親身にリアルなものでありうる高校生が存在するとは(そういう地方ももしかするとあったかもしれないけど)ものすごいショックでした。

 知らないひとはハイ、ここらへんでおさらいしてくださいね。

 昭和22〜25年の話なんですね。上の文庫の刊行当時、すでに、「三十年前のデキゴト」。
 戦後の高度成長期にはいろんな価値観とかガーーーーッとかわりましたから、この三十年はただの三十年とはちょっとチャウ。それでも、まぁ、影響が残ってるとこには残ってたのかもしれないですが、

「うおおおおお、農地改革でロミオとジュリエットかよ!」

めるへんめーかー
漫画家・イラストレーター。『丘の家のミッキー』『星降る森のリトル魔女』『不思議の森の物語』などを手がける。
公式ページ : 『不思議庭園』





(C)集英社
『丘の家のミッキー』
著 久美沙織
コバルト文庫 (1984)
通称「おかみき」。現在は新装版となっている。
→bk1 →ama →楽天



『電気計算機のセールスマン等』
著 諸星澄子
第51回直木賞候補作。昭和39年発表。




(C)集英社
『制服の胸のここには』
著 富島健夫



『葬家の狗』
著 富島健夫
第30回芥川賞候補作。昭和28年発表。

 あまりのことにウケまくりへんな意味で感動してしまったわたしは、のち、めるへんめーかーとの共著『デュエット』(おかみきがヒットしたのでやらしてもらえた、企画本の元祖みたいなもん)の中で、これのパロディみたいな『聖嘉津緒戦争』というアホ話を書いたりすることになるんですが、それはさておき。

 諸星澄子先生は、すっごい小説うまいかたなんですよ。ちなみに『電気計算機のセールスマン等』という御作品で、直木賞の候補にもなっておられます。とてもマジメで実力派なかたなんです。
 くだんの農地改革問題に関しても、ご自身真剣な懸念を抱いておられたのかもしれない。
 その頃はそういう作家のかたがおおかったんですね。

 『制服の胸のここには』(←いいタイトルです!)『おさな妻』などなどで最大人気だった富島健夫先生は『葬家の狗』で芥川賞候補になっておられます。その後、エッチ方面の作品をたくさんお書きになったのはご存知のとおり(若いかたは知らないかなぁ)。
 吉田とし先生、佐伯千秋先生、津村節子先生、平岩弓枝先生、清川妙先生、そして、川上宗薫先生などなど、そうそうたるメンバーが揃っておられました。
 ちなみに、吉田先生は大正14年の、津村先生が昭和3年の、富島先生が1931年ですから、えーと、昭和6年のお生まれですね。
読者のわたしにしてみれば「わたしに、そんなイカガワシイもの読むなという親とほぼ同世代か、ひょっとするとそれよりもっと上」のお年の先生がた、が書いておられたんですね。

 でもって……すみません、後輩なくせに非礼を申します。当時そういうものを書いておられた先生がたがすべてそうだというのではありませんし、すべての作品がそうだとももちろん申しませんか、当時の「小説ジュニア」およびその単行本版、そしてその類似作品には、「小説家デビューしたもののなかなか一般大衆文学では食べていけない先生がたの、生活費稼ぎ」っぽい面が、しょーじき、あったと思います。

 はたまた、誰とはいいませんが、お下劣にエッチに扇情的なものをお書きになって、売らんかな、な感じの部分もありました。小説ジュニア本誌には毎度『愛と性のカウンセリング』だの『読者応募の衝撃の告白体験記集』だのが載ってたし(ちなみに、デビュー後、文庫など出してもらえるようになる以前に、わたしは、その「読者応募の体験記」を何度か依頼されてデッチあげました。こういうテーマとこういうテーマとこういうテーマで書いてね、と編集部にいわれて、いかにも読者が投稿したようなふりをして書きましたです。当然、原稿料もらって。もう時効ですよね?……このへんの話はまたその時期の新人作家がどーゆーことやらされてたか、とか、あとで書きたいと思います)

 ともかく。

 「なんで?」と、わたしは思いました。
 「なんで……おねえさんやおにいさんな世代の作家のひとって、いないの?」

 小説家ではなく、マンガ家になっていたから! ……です。
 ↑
 これが答えのすべてでないとしても、少なくとも半分以上はいっていると思います。

花の24年組
昭和24年前後に生まれた少女漫画家を指す。少女漫画の可能性、ジャンルを広げた。






アイビーマンガ
70年代に「りぼん」で流行した乙女ちっくマンガ。代表作家は陸奥A子、太刀掛秀子など。

 花の24年組のみなさまが、わたしよりちょうど十個上。

 ご覧くださいこのすごいメンバー
 マンガはもう、こういうかたがたを排出していたんですね。
 とうぜん、これに続くかたがたもオオゼイおられた。
 わたしは高校生の頃まで『りぼん』を読んでましたが、その頃はアイビーマンガ全盛で、それはそれはおもしろく、どの号もどの号も水準が高かったです。

 ちなみに、高校の同級生で後にほかならぬ高校の先生になったFくんというひとがいました。
 わたしと席が隣同士でした。
 ある日、授業がおわって、片付けをしていると、床の上に、なにやら見覚えのあるノートが。
「あれっ?」
 取ろうとした手と手がかさなってしまい。
「ぼくのなんだけど」と、Fくん。
「あっ、ごめん……でも……それって、『りぼん』の付録じゃ……」
(そうだわ。だから、よごしたくなくて、わたしは学校用のノートなんかに使ってなかったんだった!)
「そうだよ。毎月読んでる」
「ほんとにー!」
「太刀掛秀子先生のファンなんだ」
「わたしは篠崎まことさまのファンなのー!」

 わたしの個人的体験では、「オタクは性別を越える」のを実感したのはこのときがはじめてです。


(C)小学館 (1974)
『ポーの一族』
著 萩尾望都
→bk1 →ama →楽天




(C)白泉社
『風と木の詩』
著 竹宮惠子
→bk1 →ama →楽天




(C)朝日ソノラマ (1977)
『いちご物語』
著 大島弓子
→bk1 →ama →楽天

(自分は幼稚園の時にすでに、テレビの『オオカミ少年ケン』にファンレターを出したぐらいで、はるかにムカシからオタクだと自覚していましたが……いやオタクということばはなかったですけど……中学生になっても、おさないイトコらを連れていくふりをしてほんとは自分がいきたくて東映まんが祭りにいっていた頃から、わたしは一生オトナになれないのかもしれない……と思ってましたが)

 以来、隣の席のFくんとは、ほんとうに男とか女とかまるで意識しないですむ良いともだちになれたと思います。毎月、誰のなんという作品のどこがよかっただの、どのコマはテヌキだの、どのコマはどの先生が助けにきて描いたに違いないだのと熱心に話し込んでましたからねー。

 すみませんまた余分な話が長くなりました。

 つまりマンガはそこまでいってたんですよ。『ポーの一族』や『風と木の詩』や『いちご物語』がすでにあった。わたしたちの、リアルな女子中学生高校生のいまの感覚にビシバシくる作品が、いっくらでもあった。なのに、小説は、まだそうではなかった。

 そこに、あるとき、突然、燦然と輝くふたつの巨大新星が出現したのです。
 新井素子ちゃんと、氷室冴子せんせいです。
 それは、あたかも、アマのイワトがあいたかのような「まばゆいばかりの」夜明けでした。

 以下次号。


原稿受取日 2004.3.21
公開日 2004.4.16
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